「ロボットに人権はあるのか」と書いたのは先月である(別稿「AIを人口知能と呼ぶのは止めよう」参照)。書いた背景には、どこまできちんと証明できるかどうかはともかく、ロボットはロボットであり、人間はロボットとは異なる人間だという根拠なき確信みたいなものがあった。つまり、「ロボットに人権はない」というのが、少なくとも私の意識の中にあったということである。

 最近無人のパワーショベルのニュースを見た。無人のパワーショベルである。人工知能で動くと説明されていたけれど、内部に組み込まれているのではなく通信機能などのネットワークで外部とつながっているのだろう。

 GPS機能もついていて、自分の位置を確かめながら作業を行う能力があるという。それは単に国内に限らず、特定の機械なのだろうが、世界中のショベルカーが1カ所でコントロールされているらしい。そしてその能力は、作業の場所や範囲や工程などに限られることなく、部品の交換時期や点検時期など数多のメンテナンスにまで及んでいるのだそうである。

 しかもこのマシーンは24時間フル稼働するという。それはそうかも知れない。テレビをつけっ放しにしておいたところで、電気代が嵩むということはともかく、その期間映像が表示されっぱなしだったところで何の抵抗もない。

 私たちは洗濯機を24時間回そうが、ゲーム機に何日も没頭しようが、「人間に何らかの悪と影響がある」ことは懸念するとしても、機械そのものをどうのこうのと思うことはない。私も事務所からの帰途に聞いていたポケットラジオの、スイッチを消したつもりで翌朝まだスイッチが入ったままだったという事態を何度か経験してある。だが電池の容量が減っているという後悔以外、夜通しラジオ放送を続けていた(であろう)ラジオに対して何のいたわりの気持ちを感じたことはない。

 それはラジオに人格を感じていないからである。そうした意味では、この人工知能を組み込まれたパワーショベルも同様である。「燃料があるうちはいつまでも動く」ことが、当たり前だと感じているからである。それはつまり「動く」ことと「働く」ことの違いだということができるかも知れない。そうした意味でも、私たちは無意識に「マシンに人格は認めない」ことを当然のこととして理解してきた。

 ところが、AIが組み込まれた様々が私たちの世界に入り込んでくるに従い、「マシン」と「人間」の接点が揺らいできたように思える。

 私たちの理解しているマシンは、あくまで「人間を補助する」ものであった。もちろん補助と言っても「常に人間に劣る機能である」とは限らなかった。石を投げて相手に傷を与える行為は、素手で殴るよりは効果的であったし、車輪は人間の機能をはるかに超えるものを持っていた。

 最近でも、電卓が人間の能力を遥かに超えてしまっていることは、恐らく人間の誰もが認めるところであろう。蒸気機関車や自動車は東海道五十三次から宿場町を消してしまったし、飛行機は海で途絶された海外をあっさり結びつけるつけることになった。

 それでも私たちは、そこに「マシンの人格」を認めることはなかった。どうして認めるようにならなかったのかを、私は必ずしもきちんと理解しているわけではない。恐らく多くの人たちも、「それはそういうものなんだ」と深く考えることなく見過ごしてきたのが現状なのだろう。

 それはもしかしたらマシンが「人間の形」をしていなかったことに原因があるのかも知れない。人間の形さえしていれば、人は植物人間でも「人間」と理解し、時に死人すらも「まだ人である」と信じたからである。

 そしてAIが生まれた。まだどこか微妙に人間とは違うことが表情のそこここに見られるけれど、人型ロボットであるとかアンドロイドが開発され、恐らくは見分けがつかないまでにこれらは進化していくことだろう。

 人権の問題は単に「人間」に限られるものではない。人権から派生した「生きる権利」、「生き残る権利」、「考える権利」みたいな発想は、鳥獣保護の思想を通じて生物全般へ広がろうとしている。そして人工知能の発達は、犬型ロボット、猫型ロボットなどの「介護に利用できるロボット」から、「料理作りを援助してくれるロボット」からセックス代行のロボット、出産できるロボットなどへと、多様な変化の様相を呈しようとしている。

 そして私たちはそれらのロボットが「人間に苦情を呈しない」、ただそれだけの理由で24時間動かすことに何の矛盾も感じないでいる。

 もし「8時間働いたから、そろそろ休みたい」と宣言するようなロボットが開発されたとしたら、そして「報酬を要求」するようなロボットができたとしたら、それは単なるプログラムのお遊びであって、ロボットは人間ではないと切り捨ててしまっていいのだろうか。たとえそれが人間そっくりであったとしても・・・。

 「人間とは何か」、いやいやそれ以前の問題として、「命とは何だ」の問題へ、AIは迫ろうとしている。AIだけではない。ゲノム編集から作られるデザイナーベビーもまた、「人間って何だ」を私たちに突きつけてくる。

 機械が「単純労働機械」であるうちは、恐らくこうした問題は起きなかっただろう。それがいつの間にか程度はともあれ、「人間そっくり」、「動物そっくり」になるような機械が身の回りに氾濫するようになってきた。

 いつの時代から人は種としての人間になったのか、私は知らない。猿、猿人を経て原人になったとして、原人はまだ人ではないのか、ホモサピエンスからが人間なのか、それとも文明を持つようになってからが人間と呼ぶべきなのか、そんなことも今の私は理解できていない。数十万年か数万年か、人は宇宙どころか地球の歴史からだけ見ても、それほど存在価値のあるような生物には思えない。まさに線香花火のような「一瞬の命のきらめき」の中に、私たちはいるに過ぎないのではないだろうか。


                            2018.12.9     佐々木利夫


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