世の中AIばやりである。医療もファッションも、そして人間特有と思われていた絵画や小説などの分野にまでその範囲が広がってきている。何でもできる、人間を超える、AIと銘打つだけで、まさに万能のイメージを与えてくれる。そうして、その能力は人智を超える部分のあることを事実として証明していることすらある。
それについては、これまで何度もここで書いてきたし、今年に入ってからでも既に8本にも及んでおり、いささか書きすぎかなとも思っている(別稿「
AIと共感力」、「
AIかやってきた」、「
人口知能とその行方」、「
人間らしさとは何か」など参照)。
電卓をAIと呼ぶのは間違いかもしれないが、このマシンは人間の計算能力をとうに超えている。またエクセルなしに仕事はできないと、その能力に舌を巻く仲間もいる。オセロゲームも将棋や囲碁も、AIは人間を超えたとまで言われている。MRIなどの画像診断も、その分析能力は人間の判断を超えていると言われている。またAIに東大受験をさせようとの試みすらある。
だが私の知るAIは、すべてディプラーニングと呼ばれるプログラムで操作されているように思える。もちろん私はディプラーニングの何たるかを知らない。テレビなどでその仕組みを解説しているが、知識として多少は理解しているものの、どのようなプログラムなのか、そしてどのように学習していくのか、どうしてそれが猫の画像と判断することに結びつくのかなど、ほとんど理解不能である。
それはまさに私の能力不足を示しており、ディプラーニングの仕組みはおろか、量子コンピューターなども含めて理解の片すみにも到達していない。だからと言ってその能力の前にひれ伏して、システムそのものを神格化してしまうことには、いささかの抵抗がある。
人間とて、仮に脳細胞によるシステムを「こころ」と呼ぶことができるなら、記憶容量とその細胞の接続方法(いわゆるニューラルネットワーク)でコンピュータと人間とか同じレベルになるのではないかとの思いがないわけではない。つまり、神とか仏などの人智を超えた何らかの存在が、魂であるとか心と言ったものを記憶容量とかその接続などという物理的存在超えたある種の超人を想定することなしに、独立して人間には存在していると思いたいからである。
そして今考えているのは、コンピュータの研究が頭脳の研究と同じレベルで考えられてることへの疑問である。AIを人工知能と呼んでいることが、それを証明しているように思える。だが、果たしてAIは知能なのであろうか。
私たちは頭だけで人間として活動しているわけではない。脳細胞の活躍だけが、そのまま人間としての全存在を示しているわけではないからである。
私たちは、体と共に人格を作ってきたはずである。生まれて乳を飲み、這い、伝い、歩き、時に足で地面を踏む感触を得、指で触れ、物をつかみ、暖かさを感じる。それは指先の神経による温度センサーの感知機能によるものなのかも知れないけれど、私たちは皮膚を通じ、臭いを通じ、痛みや快さを感じつつ、「わたし」という存在そのものを作り上げてきたはずである。
人が平凡人として目立たない一生を終えるにしろ、芸術家として華々しく世界にデビューするにしろ、はたまた犯罪人となって刑場の露と消えるにしろ、更には障害者や病人として不遇の身を自ら嘆くような人生であるにしろ、そこには一人の「個」としての「私」がいたはずである。
それをあっさり「人間性」などと呼んでしまっていいのか、必ずしも私はそこまでの理解はできていない。マラソンに自転車に乗った選手を参加させ、それで勝敗を決めたところで、それを競技だとは誰も思わないだろう。そもそも、頭だけの知能というのはナンセンスである。「手や足や顔や唇の触覚のない頭脳」、「腹痛も疲れも感じることのない体のない頭脳」、そうした頭脳だけの人間を考えるのは、もしかしたら間違いなのではないだろうか。つまり、「体のない頭脳」という発想そのものに対する疑念である。
でもどこかで人は、AIに「人間性」みたいなものを求めている。そしてそこに示される人間性という範囲に、「人間と似ている」ことが強調され、抽象的に頭脳をそこに求める。でもそれは「人間に似ている」だけであって人間ではない。ロボットに対して、「こんな会話を交わしたら左の目から8ml、右の目から7mlの蒸留水を放出せよ」とプログラムを組むことは可能である。また悲しい表情を模倣することも可能であろう。
でもロボットは「悲しい」ことを理解しているわけではない。ロボットは少しも悲しくないのである。同情すら感じないのである。ひたすら、人まねの「悲しいふり」、「共感しているふり」をするしかないのである。
もちろんそうした模倣であっても、それが模倣だと気づかないほどまでに「人間そっくり」だったとするなら、それはもう模倣ではないとする理屈もあるだろう。人は人の気持ちが分からないように作られているのだから、それが模倣ではなく本心なのだと思わせるまでに完璧な模倣なのだとしたら、それは現実の感情であり、同情であり、本心なのだと言えるかもしれない。
ロボットにそうした感情を抱くのは、単に私たちが「プログラムされたコンピュータによる演技」だと、予め知っているからこその知識であり、知らないければ相手を人間だと信じてしまったところで、それはそれで何の不都合もないのかもしれない。
だからと言って、私はAIそのものを否定したいのではない。人は素手や裸足ではまさに無防備であり、生物としては自衛はおろか他の生物に比してほとんど利点を持っていない。それが道具を持つことにより、計算機からロケット、そして文字や言語という他種の持たない性質を身につけることで種としての存続を果たしてきた。その過程でのAIであり、人の可能性を拡大する「道具」としての優位性には目を見張るものがある。そしてそれはそれでいいのではないかと思う。自転車が人間より早いからと言って、人間を超えたとは思わないのと同じだと思うからである。
もちろん人の手にした道具は他者を殺戮し、大量殺戮にまで拡大させてきた。もしかしたら科学としての道具の行く末は、一滴で地球の全生命を破滅させるまでの進化を遂げるかもしれない。それでは兵器として意味がないと言えば言えるかもしれないけれど、発見や未知への魅惑に取り付かれた一人の科学者を止めることはできるのだろうか。そこに、科学が悪いのではない、使う人間が悪いのだという理屈がどこまで通用するのだろうか。
AIにしろロボットにしろ、その模倣性は人と見分けがつかないまでに発達しようとしている。結局は「人間とは何なのか」とか、「人はどこから来てどこへ行くのか」という、単純で根源的な問いへと集約されるものなのかもしれない。それでも私はAIの研究は「人まね」への過程で止めるべきであり、それで足りるのではないかと思っている。「痛い」ことと「痛いふり」との区別がつかなくなるほどにもAIが発達したとしても、コンピュータに「痛い」ことそのものを理解することは決してできないと思っているからである
そして更に、仮に人工知能に人間そっくりを認めた場合、その人工知能に「人権」は存在するのだろうか。参政権でもいい、基本的人権でもいい、そうした権利を認めるというならそれはそれでいいかもしれない。だがどこかで区別しようとしたとき、それは人種差別とどこが違うのだろうか。それともどこかで線引きして、互いに別世界に存在するものとして、ロボットの額に何かの記号を刺青などすることで、何らかの住み分けを考えなければならないのだろうか。
2018.11.2
佐々木利夫
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