2018年6月、新幹線のぞみで死傷事件が起きた。座席に座った男が近くにいた女性二人にナタで切りかかり、それを阻止しようとした若い男性が殺された事件である。

 この事件は、新幹線の車内としては始めての殺人事件であったこと、そして加害者が逮捕後に「襲うのは誰でもよかった」と供述したことなどから、大きな社会問題になった(別稿「霧の中の動機」参照)。
 この事件に関連して多くの人から新聞に投書がなされたが、次の意見もこうした事件を防ぐための暴漢対策として鉄道当局に対処を求めた意見である。

 「・・・利用者の利便性を考えると、乗車前の厳寒な検査は難しい・・・。そこで私は・・・乗客(が)危険が生じたときにすぐ防御できるものが近くにあることが必要だと思う。(そのために)、@警察が使うさすまたや警杖などを荷物棚の下や窓の間に取り付ける・・・、A座席の背もたれの裏に捕獲用網と煙幕用投げ玉を用意する、Bエアゾール式簡易消火スプレーを窓下に起き・・・相手に噴きかけて身を守る・・・、C座席の座面のに板などを入れてピストルの弾丸も防ぐことができるようにする・・・」(2018.6.13、朝日、岐阜県 75歳 男性無職)。

 あながち荒唐無稽な提案だとは思わない。つい先日も、日本の教会の牧師から、「仲間からこんな意見も出ている」という形で、牧師にも拳銃を持たせてもいいのではないかと言うような見解を述べたという報道がなされたくらいだから、この新幹線での暴漢対策もそれほど無茶とは言えないかもしれない。

 牧師の拳銃所持や乗客に拳銃を持たせて武装させるなどの極論はさておいて、新幹線の話題に戻ろう。電車におけるこうした事件への対策というかシステムをどこまで導入すべきなのだろうか。投稿した75歳の老人(どこまでかくしゃくとして元気なのか、もちろん私には何の知識もない)は、こうした設備があれば自力で対処できたと考えているのだろうか。

 加害者の多くは、自分より非力と思われるターゲットを選びがちである。それは当然にそうだろう。特定の人間に対する恨みつらみによる犯行であれば別だろうけれど、本件では「加害の相手は誰でもよかった」と犯人がうそぶいているのである。そうしたとき犯人は、当然に相手から抵抗されることを予想しするだろうから、「誰でもいい」とは屈強でプロレスラーのような男でもターゲットとして選ぶことと同じだとは思えない。

 犯人にとっても我が身を守ることは、犯行を完遂するための必然だろう。だとするなら、自分なりに御しやすい相手を選択するのは理の当然ではないかと思う。相手に抵抗されて目的を達することができなってしまえば、誰でもいいにしろ「殺したい、傷つけたい」という動機なり、場合によっては凶器の購入などの周到な準備なり計画の遂行が無駄になってしまうからである。

 だとするなら、抵抗されてもなお結果を完遂できるターゲットの選択は、犯行の必須の要件である。屈強な男よりは、女、子ども、老人がその範囲に入ってくるし、場合によっては心身に障害のある者など、「自分より弱者」であることが選択の要件とされてくるだろう。

 それともこの投稿者は、被害を受ける本人自らが抵抗する手段としての機材の配備という意味ではなく、犯行現場に居合わした他の乗客が被害者を助ける手段として装備せよと主張しているのだろうか。屈強な男が常に回りにいて、その者たちがさすまたや捕獲用の網を使って犯行を中断させ犯人を確保させることを意図しているのだろうか。

 もう少し付け加えるなら、投稿者はこうした道具が新幹線車内に備え付けられていたのなら、今回女性をかばって死んだ男性は、その道具を使うことで殺されなくてもすんだのではないか、と言いたいのだろうか。

 今回の事件は、ナタを振りかざしていきなり女性に切りかかったというものである。この助けに入った男性の勇気を賞賛することに否やはない。どこからも、誰からも批判されるいわれはないだろう。たとえそれが、自己過信による匹夫の勇にしてもである。

 それでも咄嗟の場で、さすまたを取り出して相手に歯向かうという行動を、最初の被害者である女性やその犯行を阻止しようとした男性に求めることは無理なのではないだろうか。とするなら、投稿者は被害者もしくは加害者の周囲に回いる第三者のそうした行動を意図した意見なのだろうか。

 「助けを求めているのに、周りの人は無関心だ」と、被害者の多くはそう訴える。そうしてそうした無関心が、あたかも「人でなし」の行為ででもあるかのように批判される。そして片や、見知らぬ人を助けるような善意を褒め称える。そのことに否やはない。無関心を冷たいと批判し、関わることに賞賛を与える風潮を認めてもいい。

 でも今回はそうした善意が死に結びついたのである。他者をかばって死んだ者を誉めそやすことは容易い。でも、例えば自らが殴られる、傷つけられる、場合によっては殺される可能性があるような場合に、人はどこまで「その現場にかかわる」ことを選べるのであろうか。「まず逃げること」、「遠ざかること」は人間としてあるまじき行為として非難され、それを人は「卑怯」と呼ぶのだろうか。無関心は、そして回避する行動は、果たしてどこまで「罪」なのだろうか。


                                     2018.6.29        佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
新幹線殺人事件