つい二週間ほど前に、官僚について書いたばかりである(別稿「官僚って何だ」参照)。そしてそこでは融通が利かないからこその官僚であり、そのことが官僚の信頼につながっているのだと結んだ。そのことに何の違和感もないし、間違っているとも思っていない。

 だが時々、信頼できることや間違っていないことが、果たしてどこまでその人の気持ちの中で納得できているのか疑問に感じる自分がいることに気づいていた。間違いなく信頼でき、そしてそれが正しい選択なら、そのことに全面的に納得していいのではないかと自分に問いかけるとき、どこかでそんな気持ちに100パーセントなりきれていない自身に気づくときがある。

 納得するとは、その結論に全面的な承認を与えることである。その選択なり結論に、心底承服することである。だが、正論であることに、一点の疑いもなく納得できているかが少し気になってきたのである。

 もちろん十人十色、百人百色なのだから、9割の人が納得したとしても、全員の納得にはならないことはありうるだろう。集団の決断で、「全員一致の評決」ほど疑わしいものはないという考えをどこかで聞いた記憶がある。つまり、それだけ人には全員一致になりにくいほど多様性があるということでもあろう。

 そうしたときの基準に法律があるのだと私は思っている。法に当てはめて物事を判断することが、正しい判断の基準になるのではないかと長い間思ってきた。それが私の人生における他者に対する指針であり、同時に自己に対する戒めでもあった。

 ところが、それでも人は納得しない場合がある。法律が一番表面に表れるは裁判であろう。それは法治国家のシステムとして当然のことだからである。裁判に偏向はないのか、国家の意思や権力者の力で法が曲げられる恐れはないのか、そもそも法は公平に作られているのかなどなど、一口に法の適用と言ったところで、様々な問題があるだろう。

 それでも私たちは法治国家であることを承認し、支持し、少なくともいまのところこれに代わる新しいシステムを見つけられないでいる。だとするなら、法に従うという私たちの選択は、他に選択肢がないことによるやむを得ない決断なのだろうか。

 それなら、その選択とその法律が示した判断は、「正論」なのではなく、単に「他に選択肢がなかったことによる仕方のない結論」にしか過ぎないと言うのだろうか。それを法治国家の結論というのなら、それは「納得」ではない。諦めであり、従うことでしかない。

 裁判に負けた被告や被告人や彼等を担当する弁護士、支援団体などから、「法律がそう決めたのだから我々は納得する」という言葉を、私は一度も聞いたことがない。「敗訴」と「納得」とは、決して結びつかないように思うのである。「まだ、最高裁があるさ」、そんな一言が救いとなるような敗訴側の論理は、法律が必ずしも納得とは結びつかないことを示している。

 そしてそうした思いは、最終判断たる最高裁の判断が示された後でも、少しも変わることはない。敗訴の事実が敗訴側を納得させることはとても難しいのである。例外なく納得させられないのである。そこにあるのは、「これ以上の判断を求める機関がない」ことから来る、単なる諦めでしかないのである。

 「自分が理不尽だと感じたこと」に対して、人はどうしても納得できないのかもしれない。それは「納得しようとしない」のか、それとも「納得できない」からなのか、はたまた「納得するつもりが最初からない」のか、その辺の違いはよく分からない。

 ただ思うのは、人は多くの場面で「諦める」ことはとあっても決して「納得」などしないのでないか、ということである。そしてそんなわだかまりが、様々な場面で数多く見られることである。

 人は個としてエゴであり、我が家庭や身内、近隣や部落や地域など自らに近いものを他よりも優先して守ろうとする。それは正義や正論という論理を超えて、時としてわがままであり自己中であり、時にポピュリズムにまでなって国を支配しようとさえする。そしてその「守ろうとする心意気」は「納得できる論理」を無視さえしようとする。

 それが生き残るための、種としての命令だったのだろうか。「生き延びろ」、これが命の本質であることは理解できないではない。それは正義とか正論とか、はたまた「ありうべき倫理」みたいな枠組みを超えた、「種」としての宿命だったのかもしれない。それを超えさせないのが「人」としての種だと思っているけれど、DNAに組み込まれた「生き延びよ」の命令は、正義・正論よりも強いものがあって、絶対に逆らえないものとして私たちの前に君臨している。

 このことはつまり、正論と納得とは別次元に位置していることを示している。「正論だけど納得できない」という場面が、その多少はともかく存在するということである。そしてその多少とは、例外的に発生する現象であるとか、その発生は無視していいほど稀少な場合であるなどの範囲を超えて、けっこう頻繁に起こりうるのではないだろうか。

 そしてそうした事態に遭遇した私たちの対応はたった一つしかない。「不満だけど従う」、「納得できないけれど我慢する」である。どうしてか、相手が正論だからである。その言い分に対して、納得できないことを反論できないからである。

 ならば、反論できないこと自体、納得できないとする理屈なり思いが間違いであることを示しているのではないかと言うかもしれない。納得できないのなら、その納得できない理由を正々堂々と表明し、その正論を叩き潰せはいいではないかと言うかもしれない。

 それはそうかもしれない。反論できないということは、結局正論が正論であることを承認し追随しているのと同じになっているのではないかと言われてしまったら、返す言葉がないようにも思う。

 でも思うことがある。反論できないことは、相手が正論だからだけではない場合が多いことである。力の違い、地位や権力の違いが、反論を封じ込めてしまう場合がないと言えるだろうか。

 正論が始めから正論として存在しているのではなく、「正論に仕立て上げられる」、「正論として祭り上げられる」・・・、そんな場面を私たちは数多く経験してきたのではないだろうか。かくして正論は納得を度外視して君臨し、弱者はその正論に「納得しないままに黙認する、服従する」のが、現代のいわゆる「賢い生き方」になってしまっているように思えてならない。

 正論とは、つまるところ力が創りあげた巨象であり、虚像なのかもしれない。その巨象もいずれは他の力で倒される運命にあるのだろう。だが次の正論もまた、力が創りあげることになるだろう。弱者の願いが正論になるのを望むのは当然だとは思うけれど、そうした弱者の願いもまた単なる「空論としての正論」に止まってしまうのだろうか。

 と言うことは、正論は相手を論破することはできるかもしれないけれど、納得させることなどできないということなのかもしれない。そうするとまた、私の中で混乱が生じてくる。論破でない納得とはなんだろう。相手の意に従うことを意味するのだろうか。その「相手の意」が仮に不正、不当、犯罪にあったとしても、納得させるためには止むを得ないとして妥協しなければならないのだろうか。


                                     2018.2.15        佐々木利夫


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正論と納得