もう15年以上も前のことになるが、このエッセイを書き始めたころ村八分について書いたのを思い出した(別稿「こけし・むらはちぶ」参照)。僅か数行の内容だが、人の疎外とその疎外が100パーセントではなく火事と葬式の二つを除く八分に止めたことに、疎外する側の悲しみと暖かさについて触れたものであった。

 他者を疎外する行為に暖かさを感じるなど、そんな思いに共感が得られるとは思わない。他者への疎外は、基本的には「一切付き合わない、無視する」が分母にあるのだと思う。それでも私にはその中から二つを例外としたこと、そしてそれを八割(つまり八分)と表現したことに、多少なりとも救いの匂いを感じたのである。

 ところで今回書きたかったのは、日本に古くからある村八分についてではない。北朝鮮の核開発、ミサイル発射に対抗するため、アメリカ・国連加盟国など世界中が国として北朝鮮を疎外している行為についてである。あたかもその行為が、「世界が北朝鮮を村八分にしている」と感じてしまったからである。

 村八分を正当とするような理論など、社会のどこにもいないだろう。確かに異質を排除しようとする思いは世界のあちこちに存在する。信仰、肌の色、民族、思想・信条、貧富、地位、性別などなど、己と異なる他者を排除し同質で群れを作って共同するような考えは、世界中に蔓延している。村八分という言葉がどこまで世界に共通しているのかは分らない。それでも世界の誰だって他者への排除や疎外を、「正しいことだ」と是認するような思いを正当なものとして許容しているとは思えない。

 ところが国際社会は異なるのである。国際社会としての意思の統一がどこでどんな風に決定されるのか、はたまた国際社会とは何か、国際社会に意思というものを認めていいのかについてさえ私はきちんとは理解していない。それでも、少なくとも国連であるとか国際会議などは、各国がそれぞれに意見を表明する場であり、表明された意見は国としての意見だと思うのである。

 国連には世界全部の国々のどの程度が加入しているのか、参加国の中で一国でも反対したら「国際社会の意見」などと呼んではいけないのか、それとも過半数なら国連の意見としていいのか、賛成国がほとんどだとしても常任理事国のうち一国でも拒否権を行使したことでその議決が通らなかったときは国連の意見とはならないのかなどなど、「国際社会の意見とは何か」もまた、問われることになる。

 全体の意思が多数決で決まるのか、常任理事国の意思はどの程度影響するのかなどはこの際おくとして、少なくとも国連による決議を国際社会の意見だと考えたところで、それほど見当はずれにはならないだろう。

 そうした意味ではあるが、国際社会は北朝鮮を村八分の対象として指定したのである。指定された国が、「私が悪うございました。あなた方のおっしゃる通りにいたします」と白旗を掲げるまで、この村八分を続けることにしたのである。しかもその排除の決議は、「言うことを聞かないなら」村八分から更にエスカレートすることまで含む内容になっているのである。

 そうした背景には、恐らく「国際社会の良識」と言った大義名分があるのだろう。北朝鮮の行為が「許されないほどの国際社会の常識に違反している」とする思いが、排除する側の論理の裏側に流れているのだろう。

 「制裁が必要だ」と考えるとき、その制裁には大きく二つの手段があるように思う。一つは「暴力で屈服させること」であり、もう一つは「付き合わないこと」である。北朝鮮に対してはこの「付き合わない」手段を選択した。そして最終的には暴力(国と国との関係でいうなら戦争)による制裁の可能性までちらつかせているのである。

 いじめは世の中に当たり前に氾濫している。どちらかというと、過熱気味とすら思えるほどにも社会に沸騰している。それは例えば「○○ハラスメント」という呼び名に象徴されているような気がする。あらゆる言葉に「ハラ」という語を付加することで、それが「他者を排除する許されない行為」だと認定しているのである。その是非についてはここでは触れない。なぜならその判定が、私が陥りやすい「程度の問題」へと泥沼化していきそうだからである。

 ただ言えることは、どんな「・・・ハラ」も、許されない行為として社会から承認されていると思われることである。いじめが悪いことだとは、子ども同士の社会ですら承認されている思いである。現実にいじめがあるからそれを批判する思いがあるのだろうけれど、「いじめ」を承認するような理屈などは、恐らく見つからないだろう。

 それにもかかわらず、「国という組織」は独自で他国を「いじめ」の対象にすること、更には国と国とが共同して特定の他国を「いじめ」のターゲットとして承認することが、堂々と論議され認められ実行されているのである。もちろんそこには、そうしなければ、その他国の行う「いわゆる国際社会にとって許されないと思われる行為を止めることはできない」、との判断があるのだろう。

 そうした理屈が分らないというのではない。それでも「いじめられてもいいような事実があるなら、いじめは正当な行為として承認される」と判断していいのだろうか。「耐えられないほど相手が嫌い」なら、その相手をいじめの対象とすることが正当化されるのだろうか。それはつまり、「いじめを承認できる場合があること」を客観的に認めていいのだろうかということでもある。

 2017年は北朝鮮の核とミサイルによる挑発とアメリカの反発、そしてアメリカに同調した日本や国連に加盟した各国の共同歩調に惑わされた一年だったような気がする。そして片や、いじめられることの尽きることのない子どもや女性などの世界がこの北朝鮮への制裁問題とどこかで重複し、右目と左目のピントが合わないもどかしさの中で、今年も間もなく暮れていこうとしている。


                                     2017.12.28        佐々木利夫


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制裁と村八分