無限について書いたのは先々週のことであった(別稿「無限大と無限小」参照)。そしてそのとき、無限小は限りなくゼロに近いけれどゼロとは異なるのではないかと思い、ゼロの意味についても分らなくなってきたのであった。

 それが今日のテーマにつながることになった。無限小があって、それとは別概念としてゼロがあるのではないかとの思いが最初の疑問であり、だとするなら「無」とゼロとはどこが違うのかが更に分らなくなってきたからであった。

 無という概念は、主として哲学とか宗教の分野に使われ、恐らく数学の世界には存在していないような気がする。意味として無とは何もないことを意味するから、それはそのまま「ゼロ」と同義のように思える。だから「無」を数字で表すなら「ゼロ」であろう。

 だが私たちはゼロの意味を、プラスの数字とマイナスの数字の合計として考えているのではないだろうか。つまり、ゼロという存在を独立のものとして理解しているのではなく、1-1の結果を0と認識していることになる。それはそのまま、50+50-100であり、100+200-300の結果としてのゼロという意味である。

 とするなら、これを逆に考えてゼロという概念の中には、プラス50とマイナス50が内在しているのではないかと考えることもできるのである。つまり、ゼロになる要素は無限に存在するのであり、無限の要素が最初から含まれていると考えることができるのである。

 それはつまり「マイナス」という概念の捉え方でもあるのだろう。リンゴが一個あり、それを丸ごと食べてしまってリンゴはなくなった、それがゼロである。だがそのゼロは「リンゴがここにない」というだけにしか過ぎない。

 その「リンコがない」という思いの中には、リンゴそのものやリンゴ数百個という観念が含まれているのである。それは単にリンゴを食べたことによって今ここにリンゴがなくなったという抽象的な思いを示しているだけにしか過ぎないのではないだろうか。そしてこのゼロはリンゴだけではない。バナナがゼロ、牛や馬がゼロ、テレビや冷蔵庫がここにない、さっきまでいた人がいなくなったなどなど、多様な意味を含んでいるゼロなのではないだろうか。

 他方、無はこれとはまるで違うような気がする。リンゴは食べてしまってゼロになることはあっても、無になることはないのではないだろうか。無とはまさに何もないことであり、そこには数えられるような有体物のような観念を離れて、「何ものも存在しないこと」、つまりかつて存在していたものがないという概念を超えて、かつて存在していたかどうかに関係なく「何もない」のである。
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 これに似た考え方に「空(くう)」という概念がある。ここまできてしまうと、無という概念が数学から完全に離れてしまい、宗教や哲学の分野に入り込んでしまうように思える。だが私はどうにかして無もまた数学的に捉えられるのではないかと思っているのである。

 と言うよりは、果たして数学と哲学・宗教などとは別物なのかが分らなくなってきているのである。つまり、これらを異質で相容れないものとして区分してしまうことに、どことない違和感が残るのである。

 たとえば複数の事柄が、見かけ上何の因果関係がないにもかかわらず、単なる偶然の一致以上の何かの関連があるように見えることがある。何らかの相互の意味、もしくは意志意図がそこにあるように思えることがある。

 数学は因果である。原因と結果がきちんと結びついてこその数学であり、物理もそうした分野になるだろう。ユングはこうした分野から乖離した、因果関係とは必ずしも関わらない相互作用みたいな感触を共時性と呼び、因果と相互に補完する事象としてとらえたのかもしれない。

 現代の数学や物理は、どこか因果から離れた方向へと進んでいるような気がしている。例えば量子論は、これまでの1か0かという観念を離れて、1でもあり0でもあることを前提とする。またカオス理論は数学的誤差では説明できない複雑な現象を扱うようになった。SFの分野に入り込んでいるかもしれないけれど、バタフライ効果は北半球の蝶の羽ばたきが南半球の気象に与える影響を考えるものである。

 つまり数学や物理の世界は、因果律から離れた世界へ飛び出そうとしているように思えるのである。人間の思考も、人工知能研究でAIが追いつこうとしているけれど、私たちが例えば「魂」などと呼んでいる得体の知れない現象は、例えばディープラーニングのようなコンピュータープログラムでは解決できないもののように思えてならない。

 そうした諸々を単純に「神の一撃」などと呼んで、人智の及ばぬ分野などへ区分してしまうことには反対ではある。だが、人間の思考や生命の発祥、宇宙の意志や多次元世界などに思いを馳せるとき、因果で整理できる現象というのは我々の世界の極めて一部を律しているだけであり、無限小もゼロも無も空も、どこかできわめて単純に理解できる(もしくは完全に理解不能な)、この世界の基本的な構成要素になっているように思える。

 私が宇宙の果てを考えるとき、その思考はものの数秒でそこへと届く。何億光年もの果ての世界への思いが、光速度不変の原理を超え、光より早く進むことはできないとするアインシュタインの物理法則を超え、時に人を好きになり嫌いになり、寿司が食いたくなり焼肉に魅了され、時に死にたくなり殺したくなるという、まさに融通無碍とも言うべき夢想の世界と矛盾なく同時に存在することができるのである。

 それは人だけに許された特権だなどと驕るつもりはない。ただ他者を理解できないことを基本として存在している人や動物や木々や岩や水・・・、そうした私たちが自然と呼んでいる諸々がどこかで互いに関連しあってるのではないか、そんな気がするのである。


                                     2018.8.25        佐々木利夫


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無とゼロと無限小