こんな新聞投稿を読んだ。

 「(・・・豪州では小学生の登下校は保護者の責任とされ、校門で担任に引き継ぐルールになっている。ところが日本では、)公園を散歩中、通りかかったベビーカーに乗った赤ん坊が愛らしく、思わず『かわいいですね』と声をかけた。するとベビーカーを押していた母親は、大急ぎで立ち去った。・・・以後、可愛い子を見ても感想を言わないようにした。・・・」(2019.6.4、朝日新聞、大分県 主婦 69歳)。

 今年5月30日のことだが、通学バスを待つ小学生の列に男が突然刃物で切りかかった殺人事件を受けての投稿らしい。投稿者の意見は、「今回のような事件が二度と起きないようにするために、日本でも保護者が毎日、登下校に付き添うのが最善策なのか。みなさんはどう思いますか」と結ばれていた。

 この事件については既にここで発表したところである(別稿「不条理な殺人」参照)。私は彼女のこの問いかけよりも、赤ちゃんに声をかけてお母さんに警戒されたことの方に、いささか興味が湧いた。それは、投稿者は赤ちゃんに声をかけた「自分の善意」に全幅の信頼を寄せており、相手たる母親の気持ちに少しも考慮していないことが少し気になったからである。

 つまり投稿者たる彼女は、自らの赤ちゃんへの「かわいいですね」に、何の疑念も抱いていないからである。それはそうだろう。彼女に赤ちゃんを誘拐しようとするたくらみも、傷つけようとする意図などもまるでないことくらい、この投稿全体を読んでみると良く分かるからである。

 でもそれは、自分自身のことだから分かるのである。他者の思いなど、私たちには伝わってこないのである。悪意はもとより、善意であったとしても、思いは他者には伝わらないのである。そういう風に私たちは作られており、神は人間同士を情の伝わらない生物として作り上げたのである。

 もちろん人間には「信じる」という機能が備わっている。「信じる」ことで、伝わらないはずの他者の意志を理解しようとする機能が私たちにはある。でもそうした機能は、「信じさせる手段」を必要としているのである。長い付き合いであるとか、信頼されるような付き合い、もしくは公共的な権威による間接的な信頼などなど、信頼には信頼されるだけの時間であるとか内容が必要になってくるのである。

 恐らく彼女と赤ちゃんとの出会いは、このときが最初なのではないかと思う。もし顔見知りなら、その好悪はともかく、その赤ちゃんのお母さんは「大急ぎで立ち去った」りするなどとは思えないからである。初対面の
出会いで発した言葉が「赤ちゃんに対する『かわいいですね』」だったのである。

 そうしたときに、ベビーカーのお母さんの対応はどうすべきだったのだろうか。私がその場に居合わせたわけではないので、その状況をつまびらかにすることはできない。お母さんの選択肢は二つある。一つは「ほどほどに付き合う」であり、残る一つは「逃げだす」である。

 それはどちらも正解である。そしてどちらを選ぶかの判断基準は、前にも触れた「信頼」の有無である。だが投稿の彼女とお母さんとは初対面である。初対面で信頼関係が生まれるかどうかは難しいのではないだろうか。もちろん「信頼」が不明だからと言って、それが直ちに「悪意」を持って近づいてきていると断ずるのは間違いである。

 だからと言ってそうした時、どこまで「信頼」を尊重すべきだろうか。その信頼が正しかったなら、それはそれでいいだろう。見知らぬ他者とは言え、その人とある種のコミュニケーションがとれることになるからである。場合によっては、二人の新しい交際などのきっかけにならないとも言えない。それなのに、「信頼を拒否する」ことは、そうした機会をも奪うことになる。

 しかしその「信頼」が裏目に出たとしたらどうだろうか。相手が「可愛いね」と言って近づいて、赤ちゃんを誘拐したり怪我をさせることを目的とする者であったり、赤ちゃんにかこつけてお母さんをターゲットとする詐欺グループや強盗などだったら、その「信頼すること」は致命的である。取り返しのつかない判断になってしまう。

 そんなこと言っちまったら、見知らぬ他者とは顔を見合わせることや話をするなど、どんな接触もできないではないかと言われてしまうかもしれない。初対面を許容できないようなことでは買い物すらできなくなり、社会生活そのものを維持することすら困難になるのではないかと言われるかもしれない。

 その通りであり。でも今回の乳母車の場合は、お母さんの目の前にいるのは、何者にも代えがたい宝石である。場合によっては自分の命に代えてでも守りたい大切な大切な我が子である。全幅の信頼を、母親だけに委ねている無防備な我が子である。

 「我が子を守る」、そのことと「他者への信頼」との軽重を問うのは間違いである。答は決まっている。母性本能による我が子への庇護が、生物としての母親の本能なのか、最近の子育てに関する様々な児童相談所問題を見ると疑問ではあるけれど、乳母車の赤ちゃんと母親という場面を見る限り、私は母性を認めていいように思う。

 そこまでの母性は、もしかしたら過保護かもしれない。「かわいいね」と言ってくれたのだから、素直に「ありがとうございます」と答えてもいいではないか、と思わないでもない。「不確かであってもある程度の許容範囲で他者と付き合う」、それが社会生活の基本ではないか、そんな風に思わないでもない。

 それでも「胡散臭い奴は警戒せよ」もまた、社会生活を営む上での基本なのではないだろうか。「乳母車の赤ん坊とお母さん」にとって、「通りすがりの女性」がどこまで「胡散臭かったか」、そこまでは知らない。でもお母さんがそう感じたのなら、「声をかけてきた彼女から遠ざかる」と言う行為は正しかったと私は思う。それが生きていくための「安全」と「安心」につながる正しい決断だったのだと、私は思うのである。そうやって私たちは、人類として生延びてきたのである。それが人間の歴史なのである。


                    2019.8.2        佐々木利夫


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