台風15号から始まった今年の豪雨災害は、19号、21号、そして台風までにはいたらなかった低気圧などが複合的に関連し、千葉県を中心として40数河川の氾濫までに及ぶ未曾有とも言える被害を各地にもたらした。いまだに水の引いていない地域さえ続いている。

 こうした災害があるたびに、責任者と言うか堤防や防波堤や河川などの管理者などが、必ずと言ってよいほど口にする発言に、一つのパターンがあるように思う。

 それは、「この事故を忘れることなく、更なる安全管理に努めます」、「こうした事故の教訓を、後々まで忘れることのないよう努力し続けて参ります」のような発言である。

 こうした発言は、電車や航空機などの事故、豪雨や地震などの自然災害、原子力発電所の爆発事故などなど、私たちの回りに起きるあらゆる事故や災害の場で当たり前のように聞かれる。世の中や社会の現実は、こうした事故や災害とそれに対する対策者から繰り返される同じような発言で成り立っているかのようである。

 私たちはそのたびに、自治体や政府の謝罪と言うか今後の対策への覚悟というか、それとも単なる言い訳と言うべきかはともかく、同じような発言を聞くことになるが果たしてそれでいいのだろうか。

 なぜなら、それでこうした事故や災害がなくなることはないからである。それも、思いつかないような稀有の事故や災害なら分からないではない。現実は、地域や季節や条件などは違っても、「同じような」と断言していいような事柄の繰り返しになっている。

 でも果たしてそれを、事故であるとか自然災害と呼んでいいのだろうか。事故とはその中に、「予測不可能」とか、「思いもつかない」、そんな要素が含まれているのではないだろうか。その災害を自然災害と呼ぶのなら、その中に人為では対処不可能な「神の怒り」とも言うような要素が含まれているのではないだろうか。

 つまり、「考えもつかないほど」の事故であり災害であってはじめて、「この事件を教訓として、再発防止に努めます」とする発言が生きてくるのではないだろうか。同じような事故や災害が起き、同じような反省や対策が繰り返されるというのは、結局「何にもしていない」と同じことなのではないだろうか。

 もちろん「安全」と言ったところで、それは程度の問題に帰する場合もあるだろう。地球外から飛来した巨大隕石の到来を予想し得たとしても、それを「想定」の中に含めることまで望むことはないだろう。

 そんな「程度を越える限界」にどこで線引きするか、必ずしも私に分かっているわけではない。「絶対安全」という言葉は単なる言葉遊びの世界であり、現実には不可能だと言われるかもしれない。

 それでも私は、あえて「絶対安全」という言葉を使いたいと思う。それが自治体や政治の役割なのではないかと思うからである。「絶対安全」を目指す、それが行政に委ねられた本来の使命なのではないのだろうか。

 もちろん行政側の反応は予想できる。「予算がない」、「対応する人材がいない」、「資材がない」、つまり、人・金・物の不足である。

 それが分からないではない。「予算がない」ことだって、国民からの租税によって予算が組まれ、その中でしか活動できないのが政治や行政であり、しかも資本主義経済は「金」なしには機能しないのが現実だからである。だから政治や行政といえども万能ではない。

 「金の切れ目は縁の切れ目」であり、「予算がない」ことはあらゆる行動の限界を示す、そのことが分からないではない。でも、「金がない」が全ての言い訳になるとは、私にはとても思えないのである。「予算がない」の一言が、対処できないあらゆることに対する、責任逃れの万能の呪文になるになる、そんな風にはとても思えないのである。

 「金は安全対策に向けてこそ使うべきである」、「予算は絶対安全を目指して組まれるべきである」、それこそが国民の負託を受けた国や自治体の、本来の使命なのではないだろうか。

 「そんなこと言ったって、ない袖は触れないよ」との反応が、即座に返ってきそうである。でも「予算がない」のは、そうした予算を組まなかったことに非があるのではないだろうか。無限に予算があるわけではないことが分からないではない。

 でもあたかも「金がない」ことが、神託にも似た万能の言い訳になるような風潮は、私にはどこか間違っているように思えてならない。そしてそうした神託を、私たちは決して許してはならないように思う。

 そして更に私は思う。前々回のエッセイでも触れたところではあるが(別稿「警告と自己責任」参照)、事故や災害に対する行政の対応は、すべて「結果への対処」でしかない。起きてしまった事故や災害に対する対策、次に起きるであろう事故災害への未然防止策についてである。だから「金がない」が言い訳になってしまうのである。

 私には、その未然の防止策を、「更なる大きな未然」に拡大していく必要があるように思える。交通事故を防ぐには、「車社会の廃止」を、原発事故に対しては「原発の廃棄」を、そして豪雨災害には「豪雨災害の環起きないような環境の促進」などなどを考えることである。そこにこそ金を使うべきだと思うのである。

 私たちは常に現状を是とする施策に陥りがちである。車社会が当たり前だと考えるから、交通事故の防止には信号の増強や取締りの強化などに目が向きがちになる。原子力発電を是としてしまうから、防潮堤のかさ上げや住民の避難手段へと発想が進んでしまうのである。

 堤防は決壊するものだとの思いから離れられないから、強固な堤防や河川管理の充実などへと発想が向いてしまうのである。豪雨にならないような環境の成就に、どうして思いが巡らないのだろうか。

 もう少し事故や災害の原点へと思いを進めるのが、行政や政治に課された義務なのではないだろうか。国民の絶対安全を守る、そんな視点が世界中に欠けているのではないか、そんな風に私には思えてならない。


                    2019.10.30        佐々木利夫


             トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 

安全と錯覚