ガン告知を一種の死の宣告だと感じる人がいる。しかもその告知と死までの期間が僅かにもしろ患者に残されていることが多い。僅かにもしろそうした時間が存在していることを根拠に、人は「ガンは理想的な病」だと感じてしまうのではないか、そんな気がして前作「ガンで死にたい 1」を書いた。これはその続きである。果たして本当にそうなのだろうか、そうした考えは間違いなのではないだろうか、理想的な死などあるのだろうか、そんな思いが私の頭をよぎったからである。

 確かにそうした残された時間を使って、親しい人と残りの人生を語り合ったり、やり残した仕事や人生への思いなどを伝えたりすることは、「死に際しての思い残すことども」を解消してくれるかような気持ちを抱かせる。つまり、「この世に何の未練も残さず、命を全うする」、そんなことが可能だと思わせるような気がするからである。

 「思い残すことなどない死」を、私たちはどこかで理想のように感じているのかもしれない。そうした状態に恵まれる機会の存在こそが、死への理想的な道標であるかのようにすら感じている。

 でも、本当にそうだろうか。私はガンの告知を受けたことはないし、もちろん死を経験したこともない。臨死体験もなければ、死にいたるような病の記憶すらない。そして現在は、体にいささかガタはきているものの、毎日事務所へ通って気ままな老後生活を楽しんでいる。そうした私の現状は、それなり健康であって、日々平穏な日常を過ごせていることを意味している。

 だから私の抱く死への思いは、「そこそこ健康な者の考えている、のんびりした死」の範囲に止まるものでしかないのかもしれない。だからそんな立場にいる私が、「がん告知を受けた患者」が向き合っているであろう死への思いや恐怖などを、理解できるはずなどないのかもしれない。

 それでも私は、こうした「時間差のある死」に対するガン患者の思いが、どこか間違っているように思えてならないのである。

 死までの残された時間を、「親しいものとゆったりと過ごす」とか、「これまでの生涯をしっかりと反芻する」ことなどに使いたいとの思いは、一見理想的な使い方のように思える。もちろん、中にはそうした思いを抱くであろうガン患者がいないとは言えないだろう。でも多くのがん患者の末期の現状は、終末を意識しつつ病床に伏す治療の毎日になるのではないかと思うのである。

 そんな状態にある者が、どこまで「理想的な死」のイメージを自らの中に再構築できるか、私にはとても疑問に思うのである。患者にガンを告知するかしないかで世論が割れていたのは、それほど昔のことではない。今だって告知を承認する方向に世論が傾いているとはいえ、まだ議論が続いている。

 私は、「死は突然訪れるもので、だからこそ死なのではないか・・・」と思っているのである。死がどんな生物にも確実に訪れること、過去未来を含めてすべての人に死は例外なく訪れることくらい、誰もが知っている事実である。常識と言ってもいいほど当たり前のことである。

 一方で、一般的に死の時期は不確定である。平均寿命と呼ばれる区切られた生存期間のあることは知っている。それでも死は、死刑囚などの例外的な場合を除き、人間のコントロール不可能な領域にある。人は基本的に自らの死を知らない、だからこその生であり、同時に死であると言えるのではないだろうか。

 だから、「終末が分からない」ことこそが、死を死たらしめている基本になっているのではないかと、私は思っているのである。だからこそ生きている時間としての人生であり、だからこそ生の断絶として理解できる死になっているのではないかと思う。

 「ガンは理想的な病だ」と感じる気持ちを、嘘だと言いたいのではない。告知から死までの期間を捉えて、そこにゆとりある死を感じとる思いを、頭から否定するつもりもない。

 それでも、そうした思いは一種の逃避になっているのではないかと思うのである。逃れられない死なら、そうした逃避場所があったっていいではないか、と思わないでもない。避けられない死の現実を目の前に突きつけられたとき、人はどこかに救いを求める場所を見つけ、そこへ逃避したいと願うことがあったって、それはそれでいいではないかとも思う。

 確かに逃避は消極的であり、人は死という現実にもきちんと立ち向かうべきだとする意見もあるだろう。だが、死がガン患者にとって避けられない現実だと考えたとき、立ち向かうことの無意味さも同時に味わうのも現実だろう。ならば「逃げ出すこと」も選択肢として認めてもいいではないかと思わないでもない。

 にもかかわらず私は、この「ガンは理想的な死だ」とする思いは、死そのものから逃げているようにしか思えないのである。「理想の死」を言い訳にしているだけにしか過ぎないように思えてならないのである。「私は死を冷静に受け止めています」との思いをあえて他者に伝えることで、自らを誤魔化ししているように思えてならないのである。

 私の言ってることは、「不可避な死に向かってジタバタせよ」と言ってることと、同じような気がしないでもない。不可能を無理強いしている観念論、そんな気のしないでもない。ただ、ガン死を理想化するのは、どこか自らの気持ちを偽った、間違った宣言になっているように思えるのである。

 そしてそれは宣言とは裏腹な、単なる言い訳にしか過ぎないように思えてならない。「じたばたしない死」を理想化し、そこへ無理やり自分を押し込めてしまっているようにしか思えないのである。

 こうした逃避を私は否定したいのである。「ガンは理想的な死だ」との思いは、単なる錯覚であり、そう思いたいだけの感情論にしか過ぎないように感じられてならないからである。それは、ガン死は決して、「ゆったりと、平穏に、そして緩慢に、しかも臨終のその時まで平和の中に続く」、そんなゆとりある死ではないと思うからである。

 ガン死は決して安楽死ではないと思い、また安楽死と混同してはならないと、私はそう感じているのである。死を理想化することを否定したいのではない。本当に否定するには、そこに「理想化」という表現など出てこないように思うからである。


                               2019.6.12        佐々木利夫


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ガンで死にたい 2