人は様々だから、ある年齢を境に能力がいきなり100から0になるわけではない。とは言っても、加齢と共に徐々に体力や能力が下降していく現実はある程度避けようがないだろう。

 だからと言って、なんでもかんでも「歳のせい」にしてしまうような風潮にも抵抗がある。特に医者が、あたかも診察結果ででもあるかのように、加齢を症状の原因として掲げるような口振りには抵抗がある。

 こんなことを思いついたのは、プロスキーヤーとして名を馳せている三浦洋一郎氏の話題を、86歳にして南米大陸最高峰のアコンカグア(標高6961メートル)への登頂を目指すと宣言したニュースで知ったことにある。彼は札幌に住んでいる著名人であり、かすかな記憶だけれども、薄野の飲食店でたまたま出合い、単なる通過人として握手したことがある。

 ニュースを知ったときは、私よりも高齢なのに何と元気な老人なのだろうと、いささか羨ましく思った記憶がある。彼のニュースはその後も続き、日本を出発した、現地に着いた、登り始めたなどなど、この登山に関連した話題に途切れることはなかった。

 それほど熱心に彼の足跡を追っていたわけではないのだが、ニュースに接しているいるうちに、「あれっ、どこか変だな」と感じるようになってきた。そしてその彼が、登頂を断念して日本に帰国したことを知り、その記者会見を聞いて、その違和感は一層増幅したのであった。

 それは、彼の単独登頂ではなかったからである。一人で日本を出発し、一人で食料品や装備を調達し、一人でキャンプを設営する、そこまでの単独登頂を考えていたわけではない。

 私は未経験なので詳しくは無いのだが、例えば「富士山に登る」という一つを取ったって、六合目か七合目まではバスで行き、山小屋で一泊して混雑はともかく布団に寝て食事をして山頂を目指すのが通常行程だと聞いたことがある。だとするなら、富士山の高さ全部を登ったわけではないのだし、途中まで人も荷物も運んでもらったのだし、食事や宿泊まで含めると、富士山単独登山とは必ずしも言えないような気もしないではない。

 そうは言ってもそこまで、「単独登山」の解釈をそこまで厳格に考えなくてもいいのではないか」とは思っている。エレベスト登山だって、荷物の多くはシェルパと呼ばれる現地の労働者に途中まで運搬を委ねると言うし、単独=オール一人による登山とまで厳格に解する必要までないような気がする。

 そこまで解釈を緩めたとしても、それでも彼のこの登山にはどこか違和感が残ったのである。彼の登山は彼個人による登山と位置づけられていた。決して「チーム登山」ではない。86歳の老人の「単独登山の偉業」として位置づけられてた。

 ところが実際は、医者や家族や専門家を引き連れた登山チームによる行程だったのである。そして不整脈が出たことによるドクターストップとしての登頂断念だったのである。ニュースによっては、本人の登山継続の意欲表明にもかかわらず、医者が無理と判断し、同行した親族が泣いて本人に登頂断念を説得したとも報じている。

 そこまで知ると、私にはこの登山が86歳の老人による単独登頂だとはどうしても思えなくなったのである。私には、単なる年寄りの我がまま、無茶、賞賛への思い込み、のように思えてならなかったのである。

 登山に限らず成果の評価には、実証的意味と情緒的意味とが並存するのかもしれない。私はかつて、私の経験した最高峰の記録をここへ書いたことがある(別稿「私の登った一番高い山」参照)。それは北アルプス唐松岳のことなのだが、そこで私はこの山の標高が2696メートルであることを山頂の標識で知り、残り4メートルで切れのいい2700メートルになること気づいたのである。そして、手近な石ころをつかんで真上に放り上げ、恐らく4メートルの高さにまで放ることなどできなかったとは思うのだが、それでも私の中では標高2700メートル達成、と自己満足した記憶がある。

 つまり、自分の足で登ったのは2696メートルであるにもかかわらず、石つぶてを放り上げて2700メートルを達成したと自分に言い聞かせたのである。それと同じような意識を、私は彼の登山の単独登頂の意思表示のなかに感じてしまったのである。

 例えば6000メートルの山があるとする。どこまで理論的かどうかは分からないけれど、仮に5999メートル地点までヘリコプターで搬送してもらうとする。そして、運転手や同伴者を機内に残して、残る1メートルの標高を自分一人の足で登ったとする。それは果たして6000メートルの山を単独で登頂したと言えるのだろうか。それが許されるなら、北極点や南極点への単独走破やサハラ砂漠の単独横断などなど、金さえあるなら、どこでも気軽に叶うことになる。

 そうした意気込みや成果が、果たしてどこまで賞賛の対象になるのだろうか。そしてこのようなケースが、果たしてどこまで個人の成果として評価されるのだろうか。

 これを許してしまったなら、例えばICUのベッドに見立てた個室に医師数人を同伴させてヘリコプターでエベレスト山頂に着陸させ、「90歳でエレベスト初登頂」を演じることも可能になる。本人が金持ちか、それとも金持ちのスポーンサーを見つけることができるなら、100歳の老人にだって南極点単独走破は可能になるのである。ただそうした成果を、私はどうしても評価することはできないのである。



                                     2019.1.31        佐々木利夫


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