死んだ妹を探して・・・猫、最良の友だち・・・犬、農園の嘆き・・・馬・ヤギ、
悲しみがうつを引き起こす・・・ウサギ、骨に刻み込まれた記憶・・・ゾウ、
死んだ子ザルを手放せない・・・サル、チンパンジーのやさしさと残酷さ、
愛と神秘を語る鳥たち・・・コウノトリ・カラス、嘆きの海に生きる・・・イルカ・クジラ・ウミガメ
悲しみは種を超えて、自殺する動物たち・・・クマ・ガゼル、霊長類の嘆き・・・ゴリラ
死亡記事と死の記憶・・・バイソン、文字につづられた悲しみ
読んでいて気になったのは、結論付けている様々にほとんど裏づけが示されていないことであった。筆者はアメリカの大学教授である。そしてこの本は、「人間と動物を結ぶ情動関係」(同書裏表紙裏面の著者紹介文より)について記した一種の学問的な見解を記した著作である。
事実を認定するには証拠が必要であることくらい、私の性格というよりは少なくとも学問の世界では当然のことではないかと思っている。その証拠は自らの研究結果でもいいし、時に他者の論文などからの引用であってもいいとは思う。そして時にその認定が錯覚や誤解であったとしても、それはそれでいいのではないかとも思っている。
ただ、どちらにしても、その認定が正しいことを示す具体的根拠を読者に示す必要があると私は思う。引用なら引用でもいいけれど、その場合はどこから引用したのかをきちんと第三者に示すべきだと思うのである(別稿「
引用の嘘?」参照)。それは作者が認定を正しいと信じたことの裏づけになるからである。
そうした認定の根拠が全く示されていないことが、まず感じた最初の違和感であった。そしてその次に感じたのは、出てくる動物の多くがペットか、もしくは家畜や動物園での飼育されている動物であったことであった。
もちろん、動物は基本的には野生だろうから、人間との接点の少ない生き物である。だから、「動物同士や動物と人間の交流」みたいなテーマを取り上げようとする場合、どうしてもそこにペットや家畜などの、飼育されている動物が出てくるのは止むを得ないのかもしれない。
ただそうした場面で考えなければならないのは、飼育している動物に対する飼い主などの感情移入の問題である。根拠や証拠なしに、人は身近な動物に親しみ以上の感情を抱いてしまうからである。つまり、飼い主のペットなどに対する情報は、思い込みに満ちていると言うことである。だとするなら、そうした思い込みを割引しないと、実証的な結論は出せないと思う。
だからと言って、飼い主の感情移入を否定したり誤りだとして批判しようとは思わない。「ペットを飼う」という背景は、むしろ感情移入を前提に成立していると思えるからである。つまり科学的に見ると、人は動物の気持ちを直接理解することはできず、会話することもできない。そのことを予め理解しておく必要があると思う。
にもかかわらず、飼い主はペットと会話が可能だと信じ、気持ちの交流ができると思い込んでいる。つまり、そうした「飼い主と交流できる」との錯覚がペットの果たしている役割だと思うのである。それを分かった上でペットとの関係が成立しているのだから、あえてその環境を壊す必要はないだろう。
ただそれは、あくまでペットと飼い主という限られた環境でのみ言えることである。それを科学的に証明できたと言うためには、ペットと飼い主という情緒的な関係を離れた実証的な根拠が必要になると思うのである。
そしてこの本の記述には、こうした実証が少しも伴っていないことが気になったのである。もちろん実証が伴っていないということだけで、その記述が嘘だということには必ずしも結びつかないかもしれない。それでも、少なくとも「本当であるとは証明されていない」のであり、それは極論的には「嘘だ」と認定されても仕方がないのではないかと思ったのである。
例えばゾウの話では、著者は「
アンボセリのゾウは、死亡した身内の骨に触れたくて残された骨を探し求めているという説がある。本当にすばらしい話だとわたしには思えた。」(同書p100)と書き、「
・・・象牙に残る傷や欠けぐあい、変色などの様子から、持ち主が容易にわかったのかもしれない」(p102)とする。
また日本で有名な忠犬ハチ公を例に出し、「
・・・ハチが教授にこころをとどめたように、わたしたちもまた、死んでもなお自分のことを大切に思い続けてもらいたいと心から願っている」としているのみで、渋谷の駅周辺の屋台の客がヤキトリの残りをハチ公に与えたことから、毎日通うようになったに過ぎないとする反論があることなどには触れようともしない。
また、よその家にもらわれていった子犬の母親が、その子犬の死を遠隔地であるにもかかわらず知り、その死を嘆いたとの話を引用し、「
犬のなかには『予知能力』に似た力をもつものがいて・・・」と実証なしにそうした能力を承認しているのである。
そんなことを気にしながらこの本を読んでいくと、「かもしれない」、「・・・と思う」、「・・・と考えた」、「・・・そう結論付けるだろう」、「・・・だとわたしは思っている」、「思えてくる」、「素直にうなづける」、「言い表せないなにかがあった」、「ことなのだろう」、・・・など筆者の言葉の中にはこうした曖昧な認定による結論が多くを占めていることが分かってくる。
彼はゾウが身内の骨を認識できるかどうかについてこう語る。「
・・・ふたりの共同研究者は、・・・実験を通し、自分が受けた印象を徹底して検証することを試みた。その結果、群れのリーダーの骨とほかの群れのリーダーの骨に対するゾウの反応には、これという違いは見られなかったことが判明する。」(p160)。ここまで否定の根拠を書いておきながら、彼はこの文に続けて、「
実験の結果がそうだからとはいえ、(ゾウが反応を示したという他の目撃例を)・・・簡単に否定することはできない」(p160)として、証拠がないにもかかわらず、身内の骨は認識できるとの認定にこだわるのである。
読んでいて、これが学者の著作なのか疑問になってきた。論文ではないのだから、データの具体的添付や図表の掲示まで必要だとは思わない。それでも根拠を示すデータの所在や、引用した著作の出典など、読者が望むなら追跡できるような足跡を残しておく必要があると思ったのである。
「私のペットはすばらしい」みたいな、自分の飼い犬や飼猫がいかに優秀でスバ抜けた能力の持ち主であるかを自慢する本なら、それはそれで分かる。自らの飼っているペットが、どんな神通力を持っているかとか、どれほど飼い主と会話ができるかなど、そんなことをいくら自慢したとしても、証拠がないことを理由に私は飼い主の思いを頭から否定しようとは思わない。
そうした存在こそがペットの本質だと思っているからである。比類なき友であると擬人化したところで、だからこそそこにペットの意味があると思っているからである。
それでもこの本は、学術書ではないものの科学者が「動物が仲間や家族の死を認識できるか」について書いたものである。だとするなら、もう少し実証的な根拠を示した著作であって欲しかったと、少しばかり私はこの本に失望したのであった。
2019.4.8
佐々木利夫
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