「AI兵器の意志〜1」から始まって、4回も続けざまにAIの意志について書いてしまった。まさにAIに翻弄された数日だったが、少しもAIのことが分からないままである。これは前稿「AIの意志〜1」の続きです。

 ただAIの意志について考えているうちに、私の思いは「人間って何だ」に戻っていくように思えた。そしてそうした思いは、「人間ってなんと素晴らしい生き物なのだろう」との思いにつながるものでもあった。

 しかし、人間の素晴らしさは、そのまま人間の生物としての特殊性につながるものであった。これについては後から触れることにして、今はAIの意志について考えてみよう。

 AIの現状は、今のところディープラーニングと称するコンピュータプログラムによる判断機能を示している。そしてそのプログラムは人間が、こつこつキーボードに向かって打ち込んだ、英数字などの組み合わせにより構成されている。

 もちろんプログラムの出した結論こそがAIの判断とされるのではあるけれど、その結論とはプログラムだけのものでなく背景に膨大なデータを必要とする。その判定経過をAIそのものには追跡できないようなのだが、そのデータから得られた結果がAIの答であり、場合によってはAIの意志とされるものなのである。

 その経過追跡の不明さがブラックボックスと呼ばれる所以ではあるのだけれど、その判断のどこまでがAIの意志なのか、どこからがプログラマーの意志なのか、疑問視される根拠にもなっている。

 ところでこのプログラムであるディープラーニングなのだが、それが人間の作り上げた一種の作品であることに疑問の余地ない。だからと言って、ディープラーニングと言う一種類の、定型化されたプログラムだけがそこに存在しているわけではない。私にその知識はないけれど、私の作ったディープラーニングによるプログラム、Aさんの作った同じ目的のプログラム、Bさん、Cさん、Dさん、Eさん、Fさん・・・の作ったプログラムなど、同じ目的であっても無数のプログラムが存在し得ると言うことである。

 また私の作ったプログラムであっても、その目的、例えばゲーム、商品開発、販売向上、文字解析、医療手術手法、などなどによって、また作った私の能力やその時の年齢や考え方などによって、様々なスタイルに変化するのである。しかもそうしたプログラムは、個別にしろ合作にしろ、多人数によっても開発することができるのである。もちろんのこと、そのプログラムには、効率の良否、結果の良否、顧客の満足度などなど、多様な評価が与えられることになるだろう。

 そうしたことは、つまるところプログラムの質の良し悪しということになる。それはそのまま、目的への適合性と言ったプログラマーの個性の表れにもつながることになるだろう。私の作ったプログラムは何の役にもたたないガラクタになるしだろうし、逆にBさんのプログラムの作ったは素晴らしいと言う評価が与えられるということである。

 しかも、私とBさんのプログラムの違いは、単に作成者の頭の良し悪しだけによるものではない。作られたプログラムは、作成者の人格の投影にもなっているからである。AIに倫理をどう教えるか、どう理解させるか、そもそも倫理とは何なのか、そうした作成者の持つ全人格がプログラムに表れてしまうからである。

 そうなると、AIの知能とはプログラマーの個性の表れでもある。それがどこまでAI独自の個性なり意志なり知能と言えるのか、必ずしも私には分からない。それでもプログラマーと密接に結びついていることだけは理解できる。

 だからと言って、そのことがAIの意志を否定する根拠にはならないだろう。例えば「私個人の意思」と言ったところで、私自身の意思の全てがオリジナルであるわけではない。私は日本人として生まれ、日本語の環境で育ち、日本語で学び、日本語で考える、・・・それは私の意思のあらゆる背景に存在している。私がこうしたエッセイを書いているのだって、表面的には私のオリジナルの意思の表れではあるけれど、これまで読んだ多くの本や、両親や仲間や近隣との会話や、日常生活の経験など、私以外の多数から学んだ様々が交錯した結果の表れだろうからである。

 つまり私は様々な環境から形成された要素を持ち、その中から個性なのか物真似なのか分からないにしても、一つの出力としてこれを書いている。日本語一つ取ったって、私のオリジナルなどどこにもない。全ての知識が他者から与えられたものから作られているとも言える。だとするなら、私の意志もまた、一つの作られたプログラムから構成されていると言えるのではないだろうか。

 そして更に、現在のAIはディープラーニングから構成されているかもしれないが、これとて最終な答ではないだろう。もっと別のプログラム、もしかしたそれをプログラムとは言えないかもしれないにしても、誰かの発明した「ある結果を最速で得られるある種の人工的思考回路」と言う何かが、これから開発される可能性だってあるだろうからである。

 つまりは、ディープラーニングといえども過渡期の産物であり、最終結果ではないと言うことである。そして私は、そんな時に思い出す言葉がある。タヒチで生涯を過ごしたと言われるフランスの画家ポール・ゴーギャン(1848〜1903)が、一枚の絵に書いたタイトルのこんな一言である。

  「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

 私は今日のエッセイの冒頭に、「人間って何と素晴らしい」と書いた。しかし同時に、生物としての人間は余りにも他の生物と違い過ぎることにも気づいていしまったことにも触れた。そしてその違いの大きさに、どこか違和感を覚えてしまう自分を感じる。人の素晴らしさは人間だけ特殊性で、それを称賛すべきだとも思う。でもそれは同時に、生物の進化としては余りにも異質なのではないかとの思いにそのままつながってしまう。

 そして私は、その特殊さゆえに人類は種として存続してゆけないのではないかと思うのである。突然変異は必ずしも生き残りだけにつながるものではない。赤道直下で白熊の遺伝子を得た生物は、日ならずして絶滅への道を進むことだろう。生物の進化の多くは、絶滅への進化でもあったと思うのである。

 これだけ地上に繁栄している人類である。それでもその特殊な進化の結果は、僅か20万年足らずの成果でしかない。このままでは人の未来は、絶滅へと向かってしまうように思えてならないのである。今や人類は地球を凌駕して、地球そのものを食い尽くすまでに尊大になろうとしている。だから私は、そうした進化の異常さゆえに、我々人類は既に絶滅危惧種としての烙印を押されてしまっているのではないか、そんな風に思えてならないのである。

 なぜなら、進化と生き残りとは無関係だからである。生き残るために進化があるのではない。進化の結果が、たまたま生き残りに寄与したに過ぎないと思うからである。人が現在の地上で頂点を極めているからと言って、それは種として生き残ることとは何の関係もないと思うのである。

 人間もまた炭素水素などから作られた一種のマシンなのではないか、命もまたメカなのではないかと思う時がある。そこに「神」でも持ち出さない限り、人もまた作られたもの、つまり合成物に過ぎないのではないか、と言うことである。
 そしてそして最期になって、私が四回にわたって使ってきた「意志」という言葉はもしかしたら誤りであって、本当は「意識」と改変すべきでなかったかと、書き終えようとしている今になって思うのである。


                    2019.8.10       佐々木利夫


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AIの意志〜2