前稿「
AI兵器の意志〜2」からの続きです。
AIにどこまで意志があるのかを考えていくうちに、分からなくなってきた。まず最初は、「AIの意志」というものが「人間の組んだプログラムによる意志」とどう違うのかがきっかけだった。
そのうちに意志というものが、どこまで人間固有のものなのかが分からなくなってきたことで、果たして人間に意志というものがあるのかどうか、更にはあるとしてもそれをどう定義づけることができるかについても分からなくなってきたのである。
前稿で、犬猫にも意志はあると書いた。だとするなら、それをもっと拡大するなら、意志とは微生物や植物にも備わっている命そのものの機能なのではないかとも思えてくる。それはそのまま、生物の機能としての「意志」ということになる。
すると、次の疑問はAIの持つ意志である。AIは恐らく生物ではないだろう。もちろん生物とは何かについて、私はほとんど無知である。トートロギーめくが、「意志を持つのが生物だ」と言いたくなるほど、生物と意志とは離れがたいようにすら思っている。
ところで一方においてAIはメカである。ならばメカに意志はないのか。ないとするなら、AIにも意志はないことになる。これを逆方向に考えていくと、人間にだけ意志があるとの考えにまで行き着く。人間だけが意志を持ち、人間以外に意志を認めない、これも「意志」に対する一つの考え方である。
だがしかし、AIにも「ある種の判断」は可能である。そしてその判断が人間に近づいてきたとき、そしてその境目が分からなくなってきたとき、その判断と人間の意志とは、どこが違うのだろうか。一つの考え方として、「何でもかんでも人間至上主義」を掲げることができる。人間にだけ意志を認め、人間以外の意志を認めない立場である。
だが、「人間の意志」と言ったところで、千差万別である。芸術や科学に秀でた者の意志、スポーツに秀でた者や、平凡、無知、愚鈍、精神障害、犯罪者などの意志、そして天才から植物人間に至るまでの様々な段階の意志など、人の数だけの異なった無数とも言える意志の存在が考えられる。つまりは、あなたと私の意思である。
それらことごとくを「人の意志」として、一括して定義してしまっていいのだろうか。人は神ではない。人の持つ意志は、前回提起したトロッコ問題(暴走したトロッコの分岐先の選択)でも分かるとおり、恐らく人間には解決できないであろう。つまるところ、人間の意志とはこれほどにも不完全なのである。決断することができないまま、「運を天に任せたり」、「眼をつぶって逃げだす」こと以外に、なんにもできないほど弱く、進化しきれていないように思えるのである。
もしかしたら。決断はAIの方がしやすいのではないだろうか。そしてその判断の方が、合理的で正しい場合だってあるのではないだろうか(何が正しいのか、それもまた問題だが、瞬時の決断を求められていることだけははっきりしている)。
AIの発達は、人間と対比することで論じられることが多い。ならば人間は常に正しいのだろうか。どこまで機能的に正義が行われているか疑問ではあるけれど、司法制度の存在が刑事にも民事にも適応されることが正義を裏付けていると人は言うかもしれない。
だが司法は、結果に対する判断でしかない。求められているのは、今まさに発生しようとする、事前の対応なのである。トロッコ問題でも明らかなように、舵を右へ切るのか左を選択するのかの決断が、今ここで求められているのである。司法に判断を求めるようなゆとりなど、ここにはない。
戦争を起こすかどうか、原爆を投下するか否か、学校で特定の生徒をいじめるかどうか、夜道を歩く若い女性を強姦するかしないか、空き巣に入るかどうか、犯罪を見られたら殺してしまうかどうか、万引きするかしないか、高速道路で追い抜かれたことに不機嫌を感じるかどうか、ちょっとくらい酒を飲んで運転しても大丈夫と思うか思わないか、他人に目線を配られた行為を不快に感じるかどうか、などなど。そして致命的なことは、人間も過ちを犯すことである。人は時として判断を間違うことがある。更に更に人の意志は時間の経過によって、変わってしまうことだってあるのである。
世の中は、司法制度に馴染まない様々な選択場面に溢れている。そしてすべての人間が常に様々な選択を迫られている。それが人間なのである。結婚するかしないか、大学へ行くか行かないか、親の言うとおりになるかならないか、落語家やアイドルを目指すのか諦めるのか、自殺するかしないか、今晩一杯飲むか飲まないかまで含めて、人は混乱するほどの選択肢の中から自らの人生を決断しているのである。
それが人間の多様性なのだとするなら、AIにもそうした多様性を権利として認めてもいいではないか。AIに向かって殺人の禁止を命令できるのだろうか。もし禁止できるとするなら、それはAIの自由意志を認めないということになるのだろうか。そしてその手法は、「AIに殺人禁止のプログラムを人間が組み込むこと」を意味するのだろうか。それともAIの倫理に委ねるのだろうか。
そうしたプログラム(極めて単純に倫理プログラムと呼んでいいかもしれない)を組み込まれたAIは、果たして「意思を持つ」と言えるのだろうか。AIはそうしたプログラムを自ら拒否または破棄したり無視したりできるのだろうか。こうしたテーマは、AIに人間のような多様性を認めるのかどうかの問題にまでつながってくる。
犬猫にも意志があると言った。それは「トータルとしての猫の意志」という「一個の意志」ではないだろう。それぞれの猫にそれぞれの意志を認めるという意味ではないだろうか。だとするなら、AIにもそれぞれの意志を認めてもいいのだろうか。程度の差はともあれ、電卓には電卓の意志、飛行機には飛行機の意志があると考えるのは荒唐無稽な考えだろうか。つまりそれは、AIの発達に伴いAIそれぞれに固有の意志を認めることにつながっていくことなのだろうか。
今日は働きたくないとの意志を持つAI、こんな命令には従いたくないと思うAI、こんな下らない製品を作るのはもう飽きたと思うAI、隣のAIを好きになったと言い出すAI・・・などなど、意志と感情とは異なる分野のものなのだろうか。
AIはこれから、意志を持つようになるのだろうか。だとするならそのとき人間は、どんな存在になるのだろうか。そしてそんな人間を残したままで、AIは生き続けるのだろうか。人類は誕生から20万年ほどしか経験していない生物である。もしかしたら、AIは新しい生物、新しい命、新しい種として人間を凌駕し、これからの地球に存在し続けていくのだろうか。
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「意志」について分からないままここまで続けてきたが、もう少し書き足りない気がしている。屋上屋を重ねるだけになるかも知れないけれど、次回「
AIの意志〜2」へ続けます。
2019.8.9 佐々木利夫
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