NHKのEテレは毎週水曜日、「人間って何だ・超AI入門」という番組を放映している。週一回十二週十二回一組で、現在が三組目である。テーマは毎回異なっているから、これまでのテーマは三十回を超えようとしている。主にディープラーニングとは何かを中心に解説され、常に「人間って何だ」が繰りかえされる。

 けっこう興味があって毎回録画して欠かさず見ている。見てはいるが、内容の半分も理解できないというのが実感である。それでも、分からないなりに興味がある、分からない分だけ興味が強い、そんな気持ちで付き合っている。

 この番組の冒頭のナレーションの一部に、タイトルに掲げた「AIは噛みません」がある。それを聞いて「噛んで何が悪い」と思ったのがここへ書くきっかけになった。アナウンサーが間違って「イエス」を「ノー」と言い間違えたとしても、また早口言葉みたいな表現を言い間違えたとしても、それはそれでご愛嬌でいいのではないかと思ったのである。

 アナウンサー業界には、「噛んではいけない」という不文律があるのかも知れない。しかし、噛むことによって誤報道や虚偽報道の危険性があるのならともかく、「あらゆる噛む」を許さないとするなら、やっぱりどこか変である。

 それは「噛む」とは「言い方の間違い」であって、本質の間違いではないからである。嘘を本当だと伝えることは、噛むではなく「嘘をつく」だからである。

 だから、報道が調査不足、研究不足などで事実の認定を誤り、右を左と報道してしまうのを「噛む」とは言わないと私は思っている。それは誤報道であり、間違い報道であり、場合によっては作為による意図的な報道だと思うからである。

 AIを使ったニュースが将来行われるだろうとか、一部では既に試行されているという話をを聞いたことがある。また、このテレビでも実験段階なのか、それとも実際に行われた報道の録画なのかは分からないが、アニメのアナウンサーがニュースを読み上げる映像を放送していた。

 それはAIに接続されたコンピュータが、合成された音声で読み上げていたものなのだろう。だとするなら、間違いなくAIは噛むことはない。私は現実のそうしたAIを知らないけれど、パソコンに楽譜を入力することで、様々な楽器まがいの音色でその入力された音符を再生するプログラムに一時期凝ったことがある(別稿「私の楽器遍歴・その二、Fパソコンソフト」参照)。このAIアナウンサーも恐らく似たような仕組みによるものなのだろう。

 そしてこの入力した楽譜は、パソコンでその再生するスピードを自在に変更できることも知っている。入力された楽譜の再生に、コンピュータが間違うことは決してない。どんなに早い再生を指定をしたとしても、そして仮にその指定した再現スピードが、人間の耳に違った音程として聞き分けられないほどの早さだったとしても、パソコンは忠実に音符の音程どおりの再現をしているのだろう。

 だからAIアナウンサーにどんなに早口の読み上げを指定したとしても、AI,で合成された音声は噛むことはない。仮に一秒間に100語や1000語ものスピードを指示したとしてもである。それは、人間の耳には言葉としては聞き取れないほどの早さかもしれない。それでも、それを録音してゆっくり再生してみるなら、恐らく正しく発音されているのだと思う。

 そうした意味で「AIは噛みません」は、間違いのない事実だと思う。ただそれを、「AIは噛みません」などといかにもAIが優秀であるかのように主張されてしまうと、どこかに違和感を持ってしまう。そんなところにAIの意味や本質があるのではない、と思ってしまうからである。

 AIのアナウンサーが、アニメ風にしろ人間のスタイルをしているのは、人間のアナウンサーによる放送に、私たち視聴者がなじんでいるからなのだろうか。理屈から言うと、ニュースは音声だけだって構わないはずだし、豚がニュースを読み上げるようなスタイルだってそれほど違和感はないはずである。

 そう言った意味では、AIは人間を目指しているのだろうか。それはつまり、AIを作ったのは人間なのだから、作った人間はAIを利用して人間もどきを目指しているのだろうか。

 このごろ、AIを人工知能と呼ぶことにいささかの抵抗を感じてきている。AIが限定的にしろ、人間を超える能力を有していることは理解しているつもりである。電卓の計算スピードはとっくに人間を超えているし、将棋も囲碁もチェスも世界チャンピオンを凌駕するまでの能力を持つようになってきていることを否定はしない。またあらゆる分野で、人間との差異が縮まるように進歩していっていることもまた否定できないだろう。

 でもそのことと、「人間を超えた」と表現することとはどこか違うような気がする。人間は道具を使ったときから、その道具の分だけ自らの能力を超えることができることを知ったのである。素手ではし止めることのできなかった獲物を、棒切れや石つぶてや刀剣を使うことで、自らの限界を超えて勝利することができるようになったからである。

 だからと言って、刀剣は人間ではない。同じように、車は地上での移動を征服し、飛行機は世界を小さいものにした。核兵器は人類皆殺しの夢を見させるまでに巨大化し、インターネットは世界の情報を瞬時に結びつけるまでの能力を持った。でもそれらはすべて、特殊な機能や領域としての人間超えでしかない。

 人間は、矮小でお粗末で不完全な生き物である。それでも生物は機械とは別の進化を遂げてきたのである。恐らく「人間って何だ」の疑問は、これからも私たちに解決できない問いかけを押し付けてくるだろう。そしてその問いは、人を答のない混沌の中に埋没させていく要素になるのかもしれない。

 そしてそして、いつの日か私たちは、「噛む人間のアナウンサー」を懐かしむようになるのではないだろうか。それはむしろ「噛む」ことのなかに、人間らしさを見ることができるからなのかもしれない。AIの進歩はこれからも続いていくことだろう。

 だが私たちはそれを進歩と呼んでいいのだろうか。人間はそうした進歩に置いてけぼりを食うだけの存在として作られたものなのだろうか。果たして人間はどこへ行こうとしているのだろうか。


                               2019.5.3        佐々木利夫


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AIは噛みません