D フルート

 横笛も尺八も頓挫した。その主たる原因は音程を決めるための穴を指で塞ぐ技術、つまり指使いが不完全であるからだと男は決め付ける。確かに一箇所でも息漏れがあると、それが僅かな漏れであっても音程が変わったり音にならなかったりしてしまう。その穴塞ぎの不完全が一つだけならば、音程はともあれ音は出る。だが二つ以上の穴が中途半端に塞がれているとまるで音にはならないことが分かってきた。ならばフルートならば息の操作はそのままだし、楽器の穴を直接指で塞ぐのではなくそのための蓋がついていて、その蓋へ連動するキーを操作すれぱいいだけだからそんなことは起きないはずである。
 男は既に30歳を超えていた。ちょうど東京への職場研修中で一年間もの単身の期間がある。勉学に疲れた一人暮らしの無聊を慰めるにはもってこいの手段ではないか。それなり高価な楽器ではあるけれど、飲み屋通いにうつつを抜かすよりはよほど高尚な趣味だと男はひとり合点する。神田の街は古書店街として有名だが、歩いてみると楽器屋も多く、国産ものならなんとかなりそうな価格帯である。
 黒いケースに入った三本つなぎの金管が銀色に輝いて目の前にある。形状は金管だが、これはれっきとした木管楽器である。数日を経ずして音程はともかく音だけは出るようになった。持ち運びにも便利な軽い楽器である。トランペットなどと違って町の公園などで吹いてもそれほど回りの迷惑にはならないようである。
 カバンの角にというほど小さくはないけれど、このフルートは一人旅などの道連れになってくれた。木曽路を歩いたときには馬込城跡や中津川の川べりの一休みに付き合ってくれたし、私が登った一番高い山(別稿「私の登った一番高い山」参照)へもリュックの中に入っていた。
 吹く曲の目標はドップラー作曲の「ハンガリー田園幻想曲」や宮城道夫作曲の尺八曲「春の海」だったのだが、その頂はあまりにも高すぎた。最初の何小節かをそれこそフルートの歌口のメッキが我が唇の汗で変色するくらいになるまでこけつまろびつ挑戦したにもかかわらず、挫折といえるほどの成果も認められないままに完成からは遠のいてしまった。今は事務所の書棚の一番上に鎮座しているけれど、ここ数年ケースが開かれたことはない。

 E キーボード

 Aのオルガンはどこへ行ってしまったのだろうか。10年ほど使い込んでもさっぱり進歩しない腕前に、恐らくは親戚か知人と処分してしまったのではないだろうか。しばらく鍵盤のない生活が続いていたあるとき、キーボードと呼ばれるピアノに似た電子楽器の存在を知る。エレクトーンなどと呼ばれるけっこう高価なものもあったけれど、オルガン程度の大きさでボタン操作によって音色がピアノにも弦楽器にもなるという優れものであった。オルガンのような単一ではなく20種近い様々な音色が楽しめ、操作によっては伴奏さえしてくれるのである。もちろんピアノのボタンを押せばこの楽器はたちどころにピアノに変身するのであり、当然チェロにも教会のパイプオルガンにもである。
 ピアノのような足踏みのペダルはついていないから音の変化や強弱などの微妙な変化は望むべくもないし、キーのタッチもピアノとはまるで違うけれど、まずは童謡「猫踏んじゃった」を手始めに手当たり次第の練習が始まる。女房子供はまた始まったか、と内心嘆いたことだろうけれど構うものか。とは言えいくら練習しても上達の兆しが見られないのはこれまでの様々と同様である。まあ我慢して聞いていれば、弾いている曲がどうやら「エリーゼのために」や、演歌「氷雨」に似ていることくらいは分かるまでになったと思うけれど、それとても一曲きちんと弾き終えるまでの域には届かないままでしかなかった。
 これともけっこう長い付き合いになった。退職してワンルームの税理士事務所を開いた。ひとりの気ままな事務室である。60歳に届こうとする歳になってもなお、男はまだ鍵盤に触れていた。やがて一番下の孫が弾きたいと言い出し、私自身さっぱり進歩しない腕前への億劫さを感じていたこともあって渡りに船とばかり今は彼女の元へと移っていった。

 F パソコンソフト

 これは楽器とは少し違うのだが、ウインドゥズ95と呼ばれるパソコンのOS(オペレーションシステム)が世の中を席巻し始めて間もなく、作曲プログラムと称するソフトが市販されるようになった。それ以前に私が持っていたBASICを基本としたマシン(別稿「私のパソコン事始め」、「コンピューターがやってきた」参照)でもドレミファ程度の音を出すことはできたのだが、それは単にドアチャイムのように単音をメロディーとして並べるだけのものでしかなかった。
 だがこのウインドウズのソフトは「MIDI(ミディ)」と呼ばれるシステムを利用し、様々な擬似楽器の音を内臓した音源と呼ぶ装置を取り付けることで仮想楽器を操作できるというのである。しかも6音同時発音が可能だと言うから、小人数によるバンド程度の演奏なら我が手一人でも操作できるのと同じである。このソフト利用は細々ながら今でも続いている。win95のマシンは今でこそまるで利用価値がなくなっているけれど、擬似楽器が200台以上も入っている外付け音源2台を組み合わせたこのワンセットは、この演奏だけのために今でも事務所で生きながらえている。
 これはソフトによるパソコン操作であり、私自らが演奏する楽器とは呼べないかも知れない。しかし、パソコンのモニターに表示された五線紙に、マウスで楽器の種類や音符や様々な記号などを貼り付けていく作業は私を夢中にさせた。作曲能力などまるで持ち合わせていない私にとって市販の楽譜をなぞるくらいしか方法はなかったけれど、導入後の数年間はこの入力が私の余暇の全部と言っていいほどにも熱中した。出来上がった曲は音符こそ市販の楽譜からの借り物ではあるけれど、楽器の選択や編成、パーカッションの貼り付けや音の強弱などなどは紛れもなく私のオリジナルである。出来上がった演奏はカセットテープに録音することができたし、新しく手に入れたwin98マシンを利用してその音をCD―ROMに焼くことも可能であった。和製ポップが主体で、時折演歌も含まれていたけれど、時にクラシック、時に喜多郎や三枝成章や民謡などを含む優に100を超える雑多な曲集団は、今でも貴重な「私の財産」である。


            冗長になりましたが、私の音楽遍歴はもう少し続きます(その三へ)。

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                                     2009.4.20    佐々木利夫


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私の楽器遍歴
   (その二)