神については、つい先日書いたばかりなので(別稿「神の不存在」参照)、またぞろ同じような内容になりそうな気がしている。それでも私の中で「神の存在」は混乱のまま残っていることもあって、あえて重複を覚悟で書くことにした。

 神が「光あれ」と叫んだことで宇宙は始まったのかもしれない(旧約聖書、創世記、一章三節)。そして神が自らに似せて男と女を作ったことで人類という種が誕生したのかもしれない(旧約聖書、創世記一章二十七節)。

 でも聖書は人類が作り上げた言語による伝承の記録であり、特に創世記は架空の物語である。そこでは「神の創造」そのものがなく、「始めからあるもの」として登場する。しかし私には、「始めからあるもの」という考えよりはむしろ、人類が生まれてきたことで後発的に創られたのが神、更に言うなら神は人間が創ったとする考え方の方に、より説得力があるような気がしている。

 それは、「人間のいない時代における神の存在」を仮に考えたとしても、その神の存在を認識するのは人間だけではないかと思えるからである。なぜなら少なくとも「神」は、人間にとっての神であることだけがその存在の基本要素になっているように思えるからでもある。

 それは神の本質に及ぶ考えなのかもしれない。例えば、「原爆を開発し投下した人類」を考えてみよう。それを果たして「人の持つ残酷さや愚かさの結果として、人自らが犯した罪」と結論づけてしまっていいのだろうか。そしてその結果として人類が、その罪を神に謝罪しなければならないものなのだろうか。

 それとも、原爆の開発や投下を行ったのは確かに人間だが、そうした行為を止めることができなかったのは神だとする考えもあるように思えたのである。だとするなら、むしろ神自らが「自身の至らなさ」を反省し、逆に人類に対して謝罪しなければならないと考えられないだろうか。

 こうした考えは、神の万能性に対する疑問、そして神だから何でも許されると思うのは余りにも傲慢に過ぎるのではないか、との思いからくるものである。

 もちろん、これまでの戦争や原爆投下などを考えるとき、そうした行為をノアの箱舟のような、「神の意図した計画の一つ」と理解することは可能である。

 でもそれとは反対に、神がその権能を行使するに当たって犯した神自身の著しい失策、もしくは結果の重大さに気づけなかったという、無作為によるとてつもない重過失と考えることだってできる。

 「神とて万能ではない」と、神は言い訳するかもしれない。また、「神は人間の行動に干渉しない」と無関心を主張するかもしれない。神の万能性を私は知らないし、人類に対する神の干渉の状況をこれまでに検証したこともない。だから、そんな主張なり言い訳を、どこまで理解できるかは疑問ではある。

 それでも少なくとも多くの事実が、「神は人間に干渉している」ことを示しているのではないだろうか。もちろんそれが神が干渉した結果によるものなのか、それとも人間が勝手に神の恩寵によるものだと思い込んでいるだけのものなのか、その辺もまるで理解できていない。

 それでも人は、神が支えてくれるとの思いがあるからこそ、「信仰」という対価でその支えに報いてきたのではないだろうか。信仰とは人間の単なる身勝手な思い込みに過ぎず、神自身が望んだものではないと神は主張するかもしれない。だとするなら、神はまさに身勝手そのものの権化である。信仰を勝手に利用し、肥大化の栄養として吸収するだけの寄生虫的な存在だということになる。

 さすれば、神とは人間が思い描いた壮大な錯覚なのだろうか。私はこれまで様々に神を論じてきた。それは必ずしも「神を信じる」との立場とは異なるものであったかもしれない。また時に、神を全否定することだってあったような気がする。

 それでも神が錯覚であるとするなら、神の問題は、「神の存在・不存在」であるとか、「神は死んだ」とか、「神に見捨てられたと恨むこと」、「神の力不足を嘆くこと」や、「神の無関心に抗議すること」などの範囲をあっさり超えてしまうような気がする。それはまさに「神の消滅」、もっと言うなら消滅以前の無の問題となる。

 そして思う。果たして、神は本当に「神」だったのだろうか・・・。


                               2019.3.13        佐々木利夫


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神は誰のものか