私はこの「きちょうじ」と言う言葉を始めて聞いたような気がする。そして、それがタイトルに掲げた文字を指すのだと分かってからでも、その意味を素直に理解することができなかった。

 私がこの言葉を知ったのは最近の新聞投稿である。「・・・5年前、鹿児島県の離島で妊娠がわかった。高齢での初産に不安が大きかった。先生(医師)に出生前診断について尋ねると『あなたたちにとってこの子はキチキョウジだから』と。理解できずにいると英語で『ヴァリアブル・チャイルド』とおっしゃり、やっと『貴重児』の文字が浮かんだ・・・」(2019.7.8、朝日新聞、宮崎県 女性45歳 小学校非常勤講師)。

 出生前診断とは、妊娠中の胎児に遺伝的な異常がないかを、出産前に血液検査などで確認する手法である。この検査によってダウン症の有無などを出産前に知ることができ、最近は急激に普及していっているようである。

 以前は妊婦の羊水検査など、妊婦や胎児の命の危険も考えられるほどの検査だったのだが、最近は唾液や僅かな血液で手軽に診断ができるようになってきているらしい。「コンビニでも申し込めます」みたいな宣伝を、どこかで聞いたことがある。

 投書における妊婦の出生前診断に対する医師への問いかけは、妊娠中の胎児に遺伝的な異常がないかを事前に確認したいとの思いがあったからなのだろう。そしてその質問は表面的には「赤ちゃんは健康でしょうか」との意味である。だが、その背景には「異状があった場合、その態様によっては出産を諦めるかもしれない」、つまり「人工妊娠中絶の選択するかもしれない」であり、それはそのまま「胎児の死」までを包含する質問であることを意味している。

 こうした妊婦の問いかけに対する医師の反応は、「子供は天からの授かりものなのだがら、異常の有無など考えることなく大切に産んで育てなさい」という意味のように思える。それはつまり「子供はどんなときも貴重なのだから、遺伝子診断など受けることなく産み育てなさい」、「まだ見ぬ命を大切に」ということでもあるのだろう。

 そして彼女は、「・・・そして後期、体を動かすのも苦しく『男でも女でもでもいい。無事ならば』と心から願うようになった。やっと、どんな運命も受け入れる気持ちが備わった。・・・」とこの投稿を続ける。

 投書によれば、その子は今5歳である。出生前診断で分かるような異常があったのか、そこまで投書には書かれていない。でも、書きぶりからするなら、異常はなかったような気がする。仮にダウン症や脳性まひなどの異常があったとするなら、彼女はその事実を投稿に書くだろう。そして書いた上で「それでも私はこの子を貴重児として、強く愛し満足して育てていく」と結ぶだろうからである。

 彼女の投書は、出生前診断を医師に質問したことから始まっている。だが、投書の背景にある考えは既に書いたけれど、投書そのものの中にも書かれているように思う。それはたった一言ではあるけれど、「無事ならば」である。

 「無事ならば」には、単純に生きて生まれてきて欲しいと言う意味と、五体満足に生まれてきて欲しいという意味の二つの願望があるだろう。

 そうした母親の出生前診断の問いかけに対して、この医師は少なくとも何も答えてはいない。なぜなら母親の心配に寄り添うような気配が、医師の回答からは少しも感じられないからである。

 もちろん医師の反応が間違っているなどと言いたいのではない。ただ、答えていないと思うだけである。そんな医師の思惑は、投書の中にあるこんな回答からも分かる。

 「・・・妊娠中期、今度は性別が気になった。先生は『最近の人はすぐに聞きたがる』と顔をしかめられた

 医師の反応が間違いだとは思わない。それでも妊婦の不安に少しも気付こうとしない医師の態度がここに見られる。恐らく高齢で経験豊かな男性の産婦人科医なのだろう。そうでなければ、こんな顔をしかめるような態度は取らないように思えるからである。

 昔から胎児の性別は、妊婦だけでなく夫や家族や親戚やご近所さんなど、周りの人たちの関心の高いテーマである。妊婦の顔つきや食事の好みの変化などから生まれてくる子が男か女かを想像するなど、胎児の性別に関する伝承に欠くことはない。

 それでも赤ん坊の性別は、かつては生まれてくるまで分からなかったのである。科学技術というか、診断手法と言うか、性別を判断する方法が確立されていなかったのである。

 だからこそ性別は神様の決定事項であり、人知を超えた天の配剤の領域だったのである。ところが、超音波診断の普及あたりから、胎児の性器の判別がつくようになり、さらにDNA検査などによって性別の判定が容易になってきたのである。

 それでもこの医師は、顔をしかめて「そんな質問は神の決定にそむくものである」みたいな回答をするのである。そうでなければ、仮に医師に性別が分かったとしても、「生まれてくるまでは、楽しみにお腹の中でゆっくり育ててはどうですか」などと、優しく妊婦に話しかけることができたと思うからである。

 そしてそこに出生前診断が重なる。私もこの診断手法がここまで普及してきたことにいささかの疑念を感じてはいる。出生前診断を、神の領域に対する侵犯だとまで思っているわけではない。それでもデザイナーベビーと言われるまでにこうした話題が進んでくると、そこまでは行き過ぎではないかと感じてしまうからである。

 もちろん出生前診断は、妊娠結果である胎児の診断である。妊娠結果としての胎児の診断である以上、妊娠そのもののコントロールとは意味が違うだろう。

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 ここまで書いてきて、この話題はまだ終われないような気がしてきた。どこまで私に出生前診断の知識があるかどうか疑問ではある。それでも「出生前診断」のタイトルで、後半に続けたいと思う。


                       2019.7.26        佐々木利夫


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