出生前診断の相談を受けた医師の対応が、妊婦の心に寄り添っていないのではないかとの思いを前稿で書いた(別稿「貴重児」参照)。これはその続きである。

 「命は地球より重い」、それを前提にしてしまえば、医師の対応は少しも間違ってはいない。どんな命も貴重なのだと言い切ってしまえるのなら、命にかかわるすべての問題点はあっさりと解決してしまう。一点の曇りもなく、世界中のどんな疑問もこの答の中に押し込めて解決してしまえることだろう。

 だから、こうした答を「絶対」として、それに反するあらゆる意見を抹殺してしまえるなら、私の意見はまさに陳腐な暴論である。議論することなど許されない封殺されるべき意見である。

 でも世界の現実は、そうはなっていない。戦争、移民、テロ、貧困、自殺、事故、犯罪などなど、世界は「命を無視する」ことの上に成り立っているからである。もちろん、こんな言い方は間違いである。決して世界の存立が「命の無視」を前提としているわけではない。

 それでも、そんなことを言いたいくらい、人の命は事実として軽視されている。そしてそんな中に、この出生前診断という技法もまた立ちはだかっているのである。

 出生前診断は、まさに胎児の命が問われているのである。もちろんこの診断が、人工妊娠中絶を決断するためのものだとは必ずしも言えない。でもそうした意見は、妊婦の要求というか願いをそのまま反映しているものだとは言えないような気がしてならない。

 診断の目的は染色体異常の判定である。その目的がダウン症だけにあるとは思わないけれど、染色体異常で一番世間で目に付くのがダウン症児である。日本中の児童の養護施設には、ダウン症児が特に目立つように私には思える。

 それは、ダウン症児独特の顔つきから判断した私の独断なのかもしれない。養護施設に入所する児童ば、ダウン症児だけに限らないだろうことくらい、知識として私は知っている。それでも、日常生活の中で、外見から分かるというだけが根拠なのかも知れないけれど、ダウン症児が一番目に付き、しかも多数なのである。

 私にも、そうした子供を抱えている知人がいる。高齢になって、その子が40歳、50歳になっていく過程で、親がその子の養育が困難になっていく現状は、恐らくその親にしか理解できない苦労がつきまとうことだろう。

 誰もが知っている現状なのだから、詳しくは言うまい。社会は、そうした子供をそして大人になったその子を、「養護」という形でしか面倒をみないのである。そうした子供は、「庇護される」という意味での「可哀想な人」でしかないのである。決して健常者と対等な人格を与えられることはないのである。

 もちろん、「命は大事」、「対等な人権」、「差別なき社会」、そういった言葉は、彼らにも適用される。でも実態的に対等であることは認められていないのである。そうした「非対等」を、偏見と呼ぶか、差別と呼ぶか、区別と名づけるか、更には庇護であるとか援助など呼び方は様々であろうけれど、決して健常者と並行した扱いになることはないのである。

 そうした「非対等な扱い」は、生まれたときからその子の生涯にわたって続くのである。そしてそれはその子だけではない。親にも筆舌に尽くしがたい辛酸を与え続けるのである。そうした辛酸は、単なる事実だけではない。「当たり前の生活」と言う、私たちが日常的に考えている、家族であるとか、結婚であるとか、孫との団欒などなど、運動会や遠足や学芸会、思春期のトラブルなどまで含めて、あらゆる日常が変化してしまうことを意味しているのである。時には、「晩御飯を食べて、テレビを見て、眠くなって布団に入る」と言った、極めて平凡な日常生活まで、許されなくなる恐れをもっている。

 もちろんそうした子も我が子であり、我が子としての親子の苦労や交流があることだろう。それは、健常者と違わない、むしろ健常者でない分、もっと親密になれると言うかもしれない。でも、ダウン症児を持つこれからの辛酸を、妊婦は観念的に理解できるのである。

 そうした辛酸を、「受ける覚悟をする」か、それとも「避けよう」と考えるかは、夫婦に課されたとてつもない過酷な辛酸であり選択である。

 「五体満足」は、確かに「五体満足でない児」を差別する言葉である。かつては産婆が出産を介助しているとき、密かに水子(死産児)として処置(殺害)したとの話を聞いたことがある。それは養育に伴うその子の将来や家族の苦労などが予め分かったからだろうと思う。

 どうしてこうした差別が生まれたのか、それははっきりしている。このエッセイの前回(別稿「貴重児」)でも書いたように、「子供はすべて貴重児だ」との発想がなかったからである。五体満足な子だけが子供、つまり赤ちゃんであり、そうでない子は場合によっては排除されたからである。

 そんな歴史を、私たちは当たり前のこととして経験してきた。五体満足な子供だけが「喜ばれる出産」であり、そうでない子は祝福されなかったからである。そしてそれは現代にもつながっている。確かに障害児施設の充実は図られるようになってはてきいる。だがそれは、「障害児」として庇護する側の恩恵としての庇護であり、決して庇護される側への寄り添いを基本とする庇護ではなかったのである。

 世の中のシステムが、どうしょうもないくらいに健常者社会として構築されている。障害者は「無視する」みたいな社会から、少しずつ変化はしてきているとは思うけれど、まだまだ「可哀想だから保護してあげる」みたいな環境から脱却できてはいない。

 そんな中での出生前診断の現状がある。ダウン症児だけの問題ではないだろうけれど、「障害のある子」を丸ごと支えるシステムは、現代の社会にはまだ未完成なのである。それを自己責任と呼んでいいのかどうか、私には分からない。産んだ親とその子に、ダウン症はとてつもなく重荷を、今の社会は負わせているのである。それを踏まえて、医師は「貴重児」という言葉を使って欲しかったのである。

 「子供はみんな神様の子」みたいな、無責任な観念論で済ませられるような問題ではないと思えるのである。そんな時のこの「貴重児」という言葉は、余りにも身勝手な医師の思い上がりのように思えてならなかったのである。むしろ、腹立たしかったのである。





                    2019.7.31        佐々木利夫


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出生前診断