芥川龍之介の「蜘蛛の糸」について書いたのは、もうかれこれ15年も前のことになる(別稿 童話・寓話の・・・ん、No5「蜘蛛の糸」参照)。

 お釈迦様が気まぐれで天国から地獄に垂らした蜘蛛の糸を見つけて登ってきた男がいた。その糸をたどって後(うしろ)から続々と続いてくる大勢の亡者の列を見て、このままでは糸は切れてしまうと男は考えた。そこで男は大声で叫ぶ、「この糸は俺のものだ、・・・下りろ下りろ」。

 たったこの一言で、くもの糸は男の目の前でぷつんと切れ、後ろに続く亡者共々元の地獄に落ちてゆく、そんな物話である。それについて私は、「糸が切れたことで、お釈迦様はさぞホッとしたことだろう」と感じ、その思いをもとにこのエッセイを書いた。

 内容については別稿を読んでほしいけれど、「蜘蛛の糸」の寓話が、今でもそのまま生き延びているように思えることが最近二つほど気づき、それがこのエッセイのきっかけになった。

 その1

 その一つは蜘蛛の糸にヒントを得た人工繊維の話である。最近の話題だが、残念なことにメモが残っていないので具体的な日時やデータを示せないのが残念である。内容は、蜘蛛の糸に類似した製品の開発に成功したとの話題であった。まだ性能的に蜘蛛の糸100%までには届いていないようだが、実用段階にあるとの話であった。

 蜘蛛の糸は、鋼鉄の約30倍もの強度を持つという。それが実用的に天国と地獄を結ぶだけの強度になれるのかどうかはともかく、少なくとも人一人を支えるのも難しいと考えたこの物語の主人公カンダタの思惑だけは、あっさり外れそうである。

 もっともそうだとすると、天国と地獄とを結んだ蜘蛛の糸によって、天国は地獄の住人で溢れかえることになるだろう。これでは、神様か仏様かは知らないが、そもそもこの世に現世と天国と地獄の三つを作り上げ、生者は現世に、死者は善人と悪人に分けて天国と地獄にと、それぞれ住み分けを図ろうとした意図そのものが失われてしまうことになってしまう。

 まあ、現代の科学というのは、時にそうしたこれまでの常識をひっくり返してしまうことにも、その意味を持っているのかもしれない。たとえその人工くもの糸を使って宇宙エレベータを構想しようとも・・・。

 その2

 もう一つは、この物語は最近の移民排斥の世界的風潮に似ているように感じたことである。恐らく、どの国の国民も、個々人としては「移民受け入れ」について、抽象的にはそれほど否定的なイメージは持っていないように思える。がしかし、それでも移民排斥という現実的感情は、「特定の国の特殊な事情」という範囲を超えて、世界のほとんどの国のほとんどの人々の気持ちへと及んでいるように思える。

 世界の各地で暴動や反乱が起き、貧困が蔓延し命の危険すら現実のものになってきている。そうすると、その国の国民は祖国を捨てて他国へ移住しようとする。極端に言うなら、「自国では食えない」、「自分や家族の命すら危うい」という現実から逃避するため、家族ぐるみで国境を越えようとするのである。

 そこに移民する側と、受け入れる側の住民との軋轢が生まれる。受け入れる側にも、「人類皆平等」みたいな思いから受け入れを容認する者もいるだろう。だが、移民の中にはテロリストや犯罪者や低賃金で我々の仕事を奪う者がいると考え、またその人たちを援助するためには多額の費用がかかるなどの理由で、受け入れを拒否する者も生むことになる。つまりは、受入国における人道と利害の対立であり、移民が多くなるに従って利害に傾く人の割合が高くなるのである。

 歴史をたどるなら、世界の人類はすべて移民であろう。どこまでを土着と呼び、どの時点から移民として区別するか、私の中で必ずしもきちんと整理できているわけではない。だが、一万年前後を単位とするなら、土着人だけで構成されている国家というのは、世界でも稀ではないだろうか。

 日本を考えたところで、アイヌ人だけが日本人ではない。縄文人、弥生人と言ったところで、土着の日本人ではない。樺太、千島伝いに流れ込んできた北方系の人種か、中国大陸や台湾などの南方から流入した人種か、更にはそれらの混血かで日本人は構成されていると言われている。また、こうした系統から離れた外国人との混血による人種も多いことだろう。「純粋の日本人」という発想そのものが、私にはナンセンスな定義のように思える。

 アメリカ人、イギリス人、フランス人、ロシア人・・・などなど、世界のどの国をとったところでそのルーツを辿るなら、原因を戦争と呼ぶかもしくは征服や交流などと呼ぶかはともかく、人類は始めから混血や移民で構成されている。それをある時点で国家という組織が「自国民」という定義を作りだし、それを切り取って「○○人」としたのである。そして移民とはそうした人為的に区切られた「○○人」が、「○○国」を捨ててまたは逃げて「××国」へ移ろうとすることを意味している。

 移民排斥はここから始まる。早めに移民した者は、国家から「○○人」という証明書を与えられ、それによって「○○人」になったのである。なったことで、「私は○○人だ」と名乗り、そうした証明書のない者を外国人と呼んで、その人たちが自分たちの国へ入ってくることを移民と呼んだのである。

 それはまさにその証明書が、「くもの糸」になったことを意味している。芥川の小説の中でカンダタが、「この糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ」と叫んだと同じように、「この証明書は俺のものだ」、「持っていない者は登ってくるな」を繰り返すのである。

 私自身、この移民に関しての答を持っているわけではない。移民救済の募金に寄付するくらいのことはできるかもしれない。また多少悩むだろうが、もしかしたら我が家の使っていない部屋に困窮した他人を住まわせることだって考えられないではない。でもその住人が一人から二人三人へと増え、五人十人となっても、それでも私はにこやかに笑って受け入れることができるだろうか。

 生活習慣も宗教も年齢も性別も異なる人々に、トイレを占拠され、冷蔵庫から勝手に食料を持ち去られるようになっても、まだ我慢できるのだろうか。一日だけならまだ我慢もしよう。だが数日、数十日と続き、更には先行きの見えないその日までとなったとき、私は果たしてどこまで我慢できるだろうか。そもそも「我慢する」ということ自体どんな意味を持っているのか、疑問は果てしなく続き拡大していく。

 非常に単純な、こんなことどもにすら解決のつけられない私がここにいる。これは総論賛成各論反対などと、あっさり割り切ってしまえるような問題ではない。結局は、人は自分だけが可愛いのかもしれないと、痛烈に感じるときがある。「蜘蛛の糸」の主人公が私だったとしたら、私もやっぱり「この糸は俺のものだ」と叫ぶのだろうか。そしてそれはそんなに非難されることなのだろうか。


                               2019.5.21        佐々木利夫


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現代版くもの糸