別稿「桃太郎に何を持たせるー1」の続きです。桃太郎の持っているきび団子とお供の三匹を、銃と盾という武器だとする新聞投稿があり、それが気になって書いているうちに終わらなくなってしまった。これはその続きです。

 投稿者の意見は簡単である。「最初に武器を持たせると、武器を手放せなくなり頼りにしてしまう。でも武器を失ったとき、どうなってしまうのか?」とする、読者への投げかけである。そして彼は「・・・私は、・・・武器を持たせるのではなく、どう退治するかを考える力を身につけることだと思います」と結論づける。

 それは恐らくは、「互いに武器を持つことで強い武器を持ち合うことになり、それが戦闘のエスカレートにつながる」みたいなことを言いたいのだと思う。そしてここまでは言い切ってはいないけれど、その思いの先には「互いの破滅」みたいな結論を抱いているのではないだろうか。そして、「だから武器は最初から持つな」と言いたいのだと思う。

 投稿者が「どう退治するか」、つまり鬼を退治すること、しなければならないことを前提に意見を進めていることに異論がないわけではない。ただそうした考えは前稿で、「鬼は無条件に悪だと承認した」のだから、ここでは蒸し返さないでおこう。

 それでもなお私は、こうした「武器なしにどう退治するかを身につけよ」とする意見が、単なる抽象論であり、現実無視の空論だと思うのである。むしろないものねだりの無意味な意見にしかなっていないとすら思っているのである。

 投稿者は確かに、「武器を持たない、持たせない」との具体的な提言をしている。でもそれがどこまで現実的かを考えたことがあるのだろうか。人がどうして道具を持つようになったのか、具体的にはしらない。それでも、人は敵や獣に石つぶてを投げつけ、棒切れで叩き合うことで縄張りを確保し食物を得て生延びてきたのである。戦うとは生きることであり、かつ生き延びることと同義だったのである。

 それは必ずしも人に限るものではなかった。どんな生物も牙を得て相手を倒すか、早く走ることで逃げ切るか、捕食される数を超える子孫を作るか、そうした進化を辿るしか生延びる手段はなかったのである。

 「武器を持たせない」と提言することは簡単である。そして、それにより武器による相互の侵害がなくなることも事実である。ただそうした提言は、その提言が実現可能かどうかにかかっているのである。何が武器かがまず第一に問われることになる。

 銃や大砲や原爆が武器であることに異論はないだろう。では、刀は武器か、短刀は、ナイフは、包丁は、錐や目打ちは武器にならないのが、子供の頃に木の枝のY字部分とゴムひもで作ったパチンコはどうか、近くに転がっている石ころは武器にならないのか、拳闘家の腕が武器だとするなら普通の大人の腕は武器にはならないのか・・・。

 「それは使い方次第だ」と言うかもしれない。だとするなら、自分の身を守るために銃を持つことは許されるのか。アメリカが憲法で銃の保持を保障しているのが正しいとするなら、日本が刀剣も含めて銃などの保持を規制しているのは間違いなのか。果物ナイフで人は殺せないのか。

 「武器を持つな」は、交通事故をなくするために自動車そのものを否定することと同じではないのか。紐が一本あれば、その紐は荷物をまとめるための貴重な道具になれるかもしれないけれど、一方で人間の首を絞める武器にもなるのである。

 「使い方論」を進めていくと、結局は武器の存否を離れてしまう。マグロを裂くための包丁はいいけれど、日本刀はダメという、使い方の問題、使う人の意識の問題にすり替わってしまうからである。

 考えても見よう。人類の歴史は、そのまま武器の歴史でもあったのである。そして武器は人間の本質でもあったのである。そうした本質を無視して、「武器のない社会」を考えること自体が、どこか焦点から外れているのではないだろうか。

 世界は暴力に満ちている。それを戦争と呼ぶかテロや内乱と呼ぶか、はたまたクーデターや暴力団抗争、更にはストーカーとか空き巣の居直りとかなんならDVと名づけようが、私たちの回りは暴力で満ちているのである。そしてその暴力には、必ずと言ってもいいほど武器が付きまとっているのである。武器のない暴力など考えられないのである。

 その暴力に対処するために、私たちは警察であるとか軍隊と言った武器の保持を前提とした組織を許しているのである。学校にだって外敵の侵入を防ぐとの名目で、アメリカでは教職員に銃を持たせ、日本でもさすまたなどの武器を準備させているのである。

 「武器がはびこっているからこそ、武器のない社会を」と投稿者は言うかもしれない。でも、ライオンの群れの中に牙のないライオンが生まれたとしたら、そのライオンの行く末は「確実な死」なのである。そしてそのライオンは、「自らの死」だけに限るものではない。自らを含む「牙のない種の絶滅」でもあるのである。

 それは「牙の代わりに何か考えろ」では済まないのである。そのライオンには牙を与えるか、それとも肉切り包丁を与えるしか、生延びるチャンスは残されていないのである。

 北朝鮮が原爆を開発しているのは、武器を持つことでアメリカと対等に交渉できるからである。武器には力があるのである。強大な武器は、強大な力を生み、それはそのまま強大な交渉力、支配力、制圧力を持つのである。

 だから世界は、最強の武器と言われる核開発にあこがれるのである。そしてその研究開発を止められないでいるのである。それだけ武器には力があり、魅力があり、期待を裏切らないのである。だからだから、アメリカもソ連も中国も、テロリストも反乱軍も、つまりは世界中のあらゆる国が、組織が、個人が、核開発を含めて武器を装備することの魅力から逃れられないでいるのである。

 だから私はこの投稿者に問いたい。「それでもあなたは武器を持たせませんか・・・」と。武器をなくする、武器を持たないということは、人間をやめることなのである。人間であることを放棄することなのである。

 武器を持つことが、たとえ「人類絶滅」へ通じる一方通行の選択だとしても、人間から武力・武器を取り上げることはナンセンスだと思うのである。武器を持つことは、人間の本質なのである。武器を持ったからこそ、人間は人間として生き残ってきたのである。今更その人間であることを否定することなど、できないのである。武器の否定は人間としての存在そのものを否定することなのである。

 これはもちろん私の身勝手な予言である。私は神でもなければ、ノストラダムスでもない。予知能力も、予言の力などまるで持っていない矮小な存在である。それでも、この予言の外れないだろうことは、隣近所の人たちや世界の今の動きなどから、はっきりと分かるのである。だから私は、絶対に外れない預言者なのである。


                               2019.4.17        佐々木利夫


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桃太郎に何を待たせる−2