「桃太郎」で始まる新聞投書にぶつかって、物珍しさも手伝って最後まで読んでしまった(2019.4.5、朝日新聞、「桃太郎に何を持たせますか」、埼玉県、30歳会社員男性)。こんな内容の投稿であった。

 「今子育てする親に聞きたい。あなたなら、桃太郎に何を持たせますか」。投書はこんな文章で始まる。そして「・・・昔話の桃太郎は、きび団子を持ち、道を進む中で仲間を見つけて鬼退治に向かいます」と続く。ここまでは私の知っている話と同じ設定である。

 ところで投稿者はここで「しかし、」と反転させ、「それを今に置き換えるなら、桃太郎に銃や盾などの武器を持たせて鬼退治に行くことになります。」と続ける。そして「・・・武器を持たせるのは、親として心配だからかもしれません。しかし武器を持たせるとそれだけを頼りにしています。武器を失ったとき、どうなってしまうのか?」と続く。ここまで読んで私のへそ曲がりアンテナが、少し反応を示してきた。

 そして彼はこんな風に結論付ける。「・・・私は、親としてすべきことは、武器を持たせるのではなく、どう退治するかを考える力を身につけることだと思います。・・・あなたは何を持たせますか。

 最初にアンテナに引っかかったのは、桃太郎の持っているのは「日本一」と書かれた旗というか幟(のぼり)のような布切れであって、武器は持っていなかったのではないかとの思いであった。そうは言っても、それは読者の解釈の違いによるものであって、きび団子そして犬・猿・雉のお供集団を武器だと考える人がいるなら、それはそれで筋が通っているとも思った。

 確かに「腹が減っては戦ができぬ」と言うし、きび団子を与えることで三匹を家来にできたのだから、きび団子は食料であると同時に軍資金でもあったと考えることは可能である。軍資金の調達こそが戦(いくさ・戦争)の最大の問題点であることくらいは、日本も含めた世界の戦争における戦費調達のために増税したり徴収を強化したなどの歴史などを考えるなら、それなり尤もな意見である。

 しかも桃太郎はその軍資金で三匹の傭兵を雇うのだから、特別異をとなえることではないかもしれない。そうは思いつつも、軍資金(つまり財力)を武器と捉える見方にはやや違和感が残る。また、きび団子やお供の三匹を「銃と盾」として類推している発想にも、どこか納得できないものが残る。

 桃太郎については、これまで2004年に一度書いたことがある(別稿、童話・寓話の・・・ん?「桃太郎」参照)。その時の私の思いは、何の説明もなしに鬼退治を正しい行為だと決めつけることへの違和感であった。つまり、桃太郎の勝手な思い込みで鬼を悪だと決め付け、勝手に懲らしめて財宝を奪うという鬼退治の物語を、始めから正義としている設定の矛盾についてであった。

 「鬼退治」が正当な行為だとするなら、私は桃太郎がきび団子を持っていることも、三匹のお供を家来にしていることも、特に違和感はなかったように思う。そして犬、猿、雉の桃太郎軍団を私は先のエツセイの中で、「ハイテク機能を装備した」と形容しているのだから、投稿者が武器と認識したとしてもいいだろう。

 ともあれここでは、設定された「鬼は退治すべき敵である」という条件は、そのまま承認することにしよう。つまり、鬼は理屈抜きに退治しなければならないという前提を理屈なしに認めるということである。退治することそのものが正義なのである。このことを承認した上で、次にその敵とどう戦うかが問題となる。

 相手は退治すべき敵である。「戦わない」という選択肢はない。説得するか、屈服させるかはともかく、いずれにしても許せない敵なのだから、相手たる悪を根絶しなければならないのである。

 そうしたとき、「鬼の退治」には二通りの手段が考えられる。一つはまさに根絶することであって、悪であることは所与の前提なのだから、鬼そのものを抹殺して破滅・消滅にまで追い込んでしまうことである。もう一つの選択肢は、鬼を懐柔もしくは屈服させて味方に引き入れることである。

 桃太郎は、この二番目の選択を採用した。つまり、鬼を殺戮してその存在を消滅させてしまうのではなく、自らの支配下に入れ略奪したとされる財産の、桃太郎への提供を認めさせたからである。

 さてこの場合、自らの支配下に入れる手段にも大きく二つの方法が考えられる。一つは説得である。理を尽くし、相手の損害を補填するような何らかの手段を提供して、「私の支配下に入るよう説得すること」である。そして残るもう一つは武力である。「消滅、つまり命を奪うこと」と引き換えに、力に任せて相手を屈服させるのである。

 もちろん手段を説得と武力に分けたからと言って、二者択一だけが選択肢ではない。それぞれについて様々なウェイト付けが考えられるからである。こんな風に言っちまうと、またまた「程度の罠」にはまってしまいそうだが、それぞれに重み付けを考えると、説得も武力もつまるところ「説得手段」という一つの方法に帰着するのかもしれない。

 つまり、100%の説得が一方にあり、100%の武力行使が正反対にあるとするなら、その中間に様々な程度の違いによる、多様な位置づけが考えられる。50対50か、6:4か2:8などである。

 桃太郎を引き合いに出した投稿者は、恐らく武力行使ゼロ%を主張したいのだろう。ただ投稿者はその動機を、「武器を失ったとき」を前提としていることに注意して欲しい。つまり「最初からの武器ゼロ」こそが望ましい」と考えていることである。

 それは、「武器を失ったとき、どうなってしまうか」を憂慮しているからである。それは恐らく投稿者が、「一度武器を持ってしまうとその武器の効用に魅惑されてしまい、武器を手放すという手段を考えられなくなってしまうのではないか」との思い、つまり更なる強力な武器へエスカレートするのではないかとの思いを意味している。

 それを認識しつつ、投稿者は桃太郎に武器を持たせないことを主張しているのである。つまり投稿者は、桃太郎に最初から丸裸で鬼(つまり理屈抜きの悪)に対峙せよ、と要求しているのである。きび団子と三匹のお供集団が、どれが銃でどこが盾なのか分からない。だが、桃太郎にはこれしか武力を与えられていないことははっきりしている。

 その上で投稿者は、「一度武器を持ってしまうと、その武器を頼りにしてしまい手放すことができなくなる」ことを背景に論じている。つまり桃太郎には最初から「きび団子もお供集団も持たせない」で、悪との対決に望めと要求しているのである。


       ・・・「武力放棄」に話が進んでしまい、長くなってしまいました。「桃太郎ー2」に続きます。


                               2019.4.10        佐々木利夫


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桃太郎に何を持たせる−1