私はこれまで、一度もペットを飼ったことがない。娘二人が幼い頃に、何度かせがまれたことがある。だが数日〜数時間同居した記憶はあるものの、結局飼うまでには至らなかった。考えてみたら、金魚や小鳥の類を含めても、飼育した経験はないように思う。だから、ペットへの親しみであるとか、場合によっては人間以上に愛情を抱くなどといった感触は、残念ながら理解につながらない。

 そんな無関係・無関心とも言える私がペットについて書くなどは、無謀かもしれない。それでもそれを承知で、敢えて挑戦することにしたい。

 少し前、プラネットハンターというエッセイを書いた(別稿「プラネットハンター」参照)。その中で私は、人は他の生命体と共存できないのではないかと書いた。そして書きながら、「私はネコちゃんと、とても仲良くしていますよ」との反論が当然あるだろうと思った。

 人間と一番親しい動物は何かと問われるなら、恐らくペットとしての犬や猫がその筆頭にあがるだろう。また、飼育している牛馬などに、ひとしおの愛着を抱いている場合だってあるだろう。

 確かに、「ペットロス」と呼ばれるような現象は聞いたことがある。だから夫や我が子の死よりも、ペットの死のほうを悲しむ飼い主がいたところで、それを否定するつもりはない。

 でもそれは、ペットに対する飼い主の一方的な感情に過ぎないのではないだろうか。私はこのエッセイのタイトルを「ペットとの共存」と名づけた。それは、共存とは人間(飼い主に限定してもいいだろう)とペット間に、対等な交流が前提として必要だと考えたからである。

 そこにあるのは、命と命の交流である。幼い子どもが、母から貰った人形にどんな愛情や親しみを感じたところで、人形には命がないという意味でここで言う交流だとは思わない。

 ならばペットは命なのだから、イヌネコや小鳥などとは交流が可能なのだろうか。それはつまり、動物と人間との間で交流が可能かどうかを問うことでもある。

 こうした問題を突き詰めていくと、それは別に交流という意識にこだわらなくてもいいではないかとも思えてくる。もちろん交流という概念を前提とするならば、互いの意思疎通のないところに交流と言う意識など存在しないではないかと思わないでもない。

 ただ場合によっては、交流は「一方だけの意志」で足りるとも思えるのである。なぜなら、交流という意識は、二つ以上の生命の相互作用だけに限定される必要はないのではないかとも思えるからである。

 AとBの交流を考えてみよう。人間同士でもいいし、片方がネコだって構わない。そうしたとき、「 Bと交流できた」と判断するのは人間だけだと言うことに気付く。A が自分の判断で相手と交流できたと考えたのなら、そこにBの意志まで介入させる必要はないのではないかと言うことである。

 それはつまり、交流という意思疎通の判断は、意思疎通できたと感じる側の、一方的な意識だけで完成してしまうのではないかと言うことである。

 ネコがどんな風に思おうと、飼い主たる人間が「私はこのネコと通じあっている」と感じたなら、それも一種の交流のスタイルとして認めていいのではないだろうか。そんな飼い主の意識の場へ、他人が勝手に介入して、ネコの意思が確かめられないから交流の成立は認められない、などと横槍を入れる必要などないではないだろうか。そんな介入こそまさに、余計なお世話だとも思えるのである。

 考えてみると相互理解とは、言葉の上、もしくは理屈の上では当事者双方の理解が必要とされるものだろう。だが、現実には片方が「互が理解できた」と思うだけでも、成立する場合があるのではないだろうか。

 確かに片方が「思うだけ」では、「相互」とは言えないのかもしれない。しかし、その理解が錯覚であろうが、身勝手な思い込みであろうが、A本人の気持ちは少しも影響されることはない。他人がそれにいちゃもんをつけて、「相互」なのだから「相互」が要件なのだと言ったところで、その相互であることを判断するのはAだけに限られるのだから、片方の意志だけで足りるのではないかと言うことである。

 ここまで言い切ってしまうと、私はこの相互交流とか意思疎通という観念そのものが、成立しないように思えてくる。「理解」と言う観念は果たして存在するのだろうか、それともそもそも成立しない見果てぬ夢にしか過ぎないのだろうか。人とネコが決して相互に理解することなどできないように、人間と人間もまた互を理解することは難しく、不可能なのだろうか。

 人種や宗教や地域、更には習慣や教育や性差などなど、人が人を理解できないことによる混乱で、世界中が紛争の渦中にある。「互いが理解できれば、すべて解決できるのか」と問われてしまうと、それもまた答のない問いになってしまうような気がするけれど、「互いの理解」というのがどれほど難しいかを私たちは毎日毎日、飽きるほど目の当たりにしている。

 他方、「自分で自分が理解できない」という表現もある。それは果たして何を意味しているのだろうか。他者どころか、私たちは自らのことをも理解できない生物として進化してしまったのだろうか。果たして「理解する」とは、どこに、どんな形で存在している観念なのだろうか。


                    2019.9.13        佐々木利夫


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ペットとの共存