老衰の話題が長くなってしまった(前稿「老衰と孤独死 1」参照)。ここからは「孤独死」について書こうと思う。孤独死もまた、私の中でその定義を決めかねている。それでも、言葉そのまんまの意味かもしれないけれど、孤独死が「独りで死ぬ」ことを意味することくらいは分かる。

 ただ、「孤独死」をそんな風に決めてしまうと、人は常に「独りで生まれ、独りで死ぬ」のではないだろうかという疑問にぶつかる。人は「生まれるときも死ぬときも独りである」ことくらい、種として定められた「生物としての命」の持つ宿命だといえないだろうか。そうならあえて「孤独死」などという用語を割り当てる意味などないことになる。

 それでもあえて孤独死という特別な固有名詞を割り当てる必然を考慮するとしたら、次のような場面が目に浮かんでくる。それは多数の他者の見守る前での一人の死、もしくは少なくとも一人の生きている他者の目の前で起きる一人の死という場面である。それはつまり仮に死の瞬間を「臨終」と呼ぶとすれば、臨終のときに他者の目がない状況を「孤独死」と理解したいのではないだろうか。

 それを私たちの日常で理解するとしたら、多数とは親、子、孫、曾孫など、三世代、四世代が同居する、昔ながらの家族構成が頭に浮かぶ。そして、一番の年長者が病気や怪我などによらないで死の床についている。やがて原因不明のまま呼吸が乱れてきて、同居している家族がその周りに集まってくる。

 間もなく呼吸が停まり、心臓も停まる。診察していた医者が「ご臨終です」と家族に伝える。涙する家族に見守られた中での一人の死・・・、それを「孤独でない死」、むしろ「日常的な死」と理解したいのではないだろうか。

 もちろん孤独死が三世代、四世代が同居し、家族全員が一人の死に立ち会っていることだけを意味するものではないだろう。老いた妻と老いた夫の二人だけだとしても、この「孤独でない死」は成立するのかもしれない。つまり夫と妻の二人が登場することで、「独りでの死」にはならないからである。

 もしかしたら「生きている一人以上」の存在は、親族でなくてすらいいのかもしれない。天涯孤独者の死、もしくは遠距離もしくは疎遠などで親族が臨終に立ち会えないような場合の死でも、その場にたまたま友人や近隣の人たちがいたり、介護してくれているスタッフや、事故処理を担当した警察官などがいたとするなら、少なくとも物理的には「独りの死」ではないことになる。

 それらを「死の瞬間に誰か他人がいた」という事実を捉えて、孤独死でないと定義してもいいのだろうか。仮にそれを「孤独でない死」と認めたとしても、だとするなら、その反対の場合、つまり「死の瞬間に誰もいなかった状況」、それを孤独死と言っていいのだろうか。

 「独りで死んだ」という意味では、まさに孤独死である。だが三世代が同居していても、夫婦で一つ布団に寝起きしていたとしても、「死の瞬間を誰も知らなかった」というケースは珍しくなくあるのではないだろうか。むしろ、「死の場に死者以外の誰かがいて、その者の死を見守っている」という場面の方が例外なのではないだろうか。

 夫婦や家族が一つ屋根に寝起きしていたとしても、「朝起きて声をかけたら死んでいた」、「昼寝をしているとばかり思っていたら息をしていなかった」、「ひとりで車を運転していて交通事故を起こして亡くなった」、「道を歩いていて通り魔に殺された」などなど、死の場面は独りである場合の方が多いのではないだろうか。

 入院中だとしても、深夜などに看護師の巡回と巡回の間に亡くなる場合もあるだろう。人が仮に何らかの監視下にあったとしても、死の瞬間を誰も知らなかったという状況は珍しくなく存在すると思うのである。

 ならば「孤独死」とは、事実としての死と、その死が発見されるまでの時間差の長短を意味するものなのだろうか。「昨日まで元気だったのに・・・」、「さっきまで食事していたのに・・・」、「チョット目を放した隙に・・・」などの死は、たとえ死の瞬間が独りだったとしても、すぐに発見されたという意味で「孤独死」にはならないのだろうか。

 恐らく「孤独死」という発想の中には、「死の瞬間が独りであった」という意味よりも、長時間、時に数日間にわたってその死が誰にも知られなかった、そんな状況を言うのかもしれない。

 一人暮らしの老人が、カップラーメンを食べかけたままテーブルに突っ伏している。発見されたときには死後数日を経過していた。場合によっては腐敗が始まっているかもしれない。「孤独死」とは、そんな情景をイメージしているのだろうか。そうだとするなら、それは放置された死体の状態を指すのであり、「孤独死」というのとは少し違うような気がする。

 そうしたことについて、「孤りで死んだから放置されてしまったのだ。だからそれを孤独死と呼んだところで何も問題はない」との反論も聞かれるような気がする。

 ならば「孤独を望んでいた者の死」は、どのように理解したらいいのだろうか。「わいわい、がやがや」、多くの人に囲まれた中で往生を遂げたいと思っている人もいるだろうし、独りで死ぬのは嫌だと思っている人もいるだろう。でも「私の死は誰にも知らせずにおいてほしい」、「そっと死なせて欲しい」と願い、実行する人だっているはずである。

 それは死に対する「己の信条」である。哲学である。人生である。誰からの干渉も許さない、己だけの究極の思いである。死体の発見が多少遅れたところで、それが本人の望みだったとするなら、それはそれでいいではないか。自分の死は自分が決めたいのである。誰からも干渉されたくないのである。自分だけの世界を作り上げたいと願った結果なのである。

 そうした世界に、他人が自分だけの思惑で「かわいそう」だとか、「哀れ」だとか思って介入してくるのは、死者に対する理不尽な冒涜ではないだろうか。死者の尊厳を傷つけるものではないだろうか。

 そして更に孤独死とは、その死を可愛そうだと感じたり迷惑だと感じる「他者」の思いに基づく死なのだろうか。それとも独りの死は嫌だと考えている、「いずれ死に行く本人」にとっての死なのだろうか。そのとき、孤独のまま死にたいと願っている本人の思いなんぞは、無視されてしまうのだろうか。

 私はこうした「時間の意味」や「死者の尊厳」、「誰の視線による死なのか」などからみて、「孤独死」という表現にどこかなじめないものを感じているのである。そして本当は、「なじめない」の程度を少し超えて、ふさわしくない表現だとすら思っているのである。


                               2019.3.3        佐々木利夫


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老衰と孤独死 2