土曜を除く毎朝、私の耳にはイヤホンからクラシックが流れている。家を出るのが午前8時少し過ぎで、事務所へ着くのは9時゚近くになる。NHKのFM放送で、月曜日は「きらクラ」、火曜から金曜日までは「クラシックカフェ」、日曜日はAM放送の「音楽の泉」である。日曜日を除きすべて再放送だが、投稿したりリクェストしたりすることはないので、特に支障はない。

 土曜日は、以前はNHKAMの「ラジオ文芸館」の再放送を楽しみにしていたのだが、いつの間にか時間帯がずれてしまって、今は私に届かなくなってしまっている。楽しみにしていたのだが、どうにも残念である。

 ともあれ、私の耳にはほとんど毎日クラシック音楽が流れている。ただ、番組開始時間から聞いているわけではないので、曲の途中から耳に届くことになる。そうしたとき、気になるのは流れている曲が「誰の曲なのか」、「何という曲なのか」の二点である。本当は演奏家や指揮者、オーケストラ名まで分かるとなお楽しいのだが、残念ながらそこまでの耳も知識もない。それで誰の曲か、何という曲かだけが残ることになる。

 とは言っても、私のクラシック知識の乏しさはクラシック好きとは言えないほど乏しいものである。語ることすらおこがましいと言ってもいいくらいである。

 ガーシュインあたりからジャズとの境界が不確かになるくらいの知識しかないのだが、クラシックかどうかの判定は大体分かるつもりでいる。そうした場合、流れている曲のイメージから作曲家なり曲名を判定する、私なりの方法がある。まず曲想から、「バロック」らしいか、「少し近代的なモーツァルト以降か」、そして「色彩的なラベルやジャズ風なストラビンスキー以後の現代曲か」の三段階で分けるのである。

 それとても不確かではあるのだが、一応これで過去数百年のいわゆるクラシックと呼ばれるジャンルを、自分の中で大きく三つに分けることができる。その上で、各ジャンルに所属するであろう著名な作曲家なり、楽曲名なりの記憶を手繰っていくのである。

 時は今年の1月10日のクラシックカフェ、朝の再放送である。自宅を出るときには既に始まっているのだが、電車に揺られながらどこか気になる曲が流れていた。知っているというほど馴染みのある曲ではないけれど、知らない曲だと割り切るほどでもない、そんな曲だった。

 こんな曲が一番苦手である。まるで知らない曲なら、その曲の演奏が終わったときに曲名や演奏者名などの紹介があるはずなので、その時まで待って「ああそうか」と納得すればいいだけのことだからである。仮に誰でも知っているような曲でありながら私が知らなかったとしても、それを恥じるようなことはない。まさに「ああそうか」で済むからである。

 ところが中途半端に「聞いたことがあるような気がする」というのが、一番厄介である。どうも気持ちが落ち着かないのである。そんな経験は何度もあり、以前にもストラビンスキーの春の祭典でそんなことがあったことはここへ書いたことがある(別稿「物忘れが始まった」参照)。どうも中途半端は私の嫌いな分野なのかもしれない。

 それで今日の曲も私の三分類にあてはめてみることにした。バロックではない。だからと言って現代曲というほどでもない。モーツアルトにしてはメロディー性に少し乏しいような気がする。またチャイコフスキーらしいスラブ的な感触も伝わってこない。

 こうなると、耳に入ってくる楽曲そのものはどうでもよくなる。むしろ曲名探し、作曲家探しのほうに注意力がどんどん向いてゆく。下車駅が近づいてくるものの、依然として作曲家も曲名も分からない。電車を降り、バスに乗り継いでも分からない。そのうちに曲が終了し、アナウンサーが答を出すことになるだろう。だが、それを聞いたのでは、ここまで悩んできた経過に対しどこかしっくりこないものがある。どうにかして、間違った答でもいいから、自分なりの結論を出すほうがしっくり来るように思えてくる。

 ここまでくると、曲名探しも一種の執念にまでなってくる。興味で探すのではなく、「探さずにおくものか」という気持ちにまで昂ぶってくるのである。

 そして結論付けた。曲名は分からない。こればっかりは分からないのは分からないと結論付けるしかない。だが作曲家は、仮にあてづっぽうにしろ、そして間違っているにしろ、何らかの名前を指し示すことが可能である。

 結論付けたのは「ベートーベン」であった。チャイコフスキーとの混同はあったのだが、悩んだ末にベートーベンと結論付けたのである。これで一安心である。当たっているにしろ、外れているにしろ、私の中で「この曲の作曲者はベートーベンである」と結論付けることができたからである。

 正解であった。曲名は「プロメテウスの創造物」であった。この答えは私の中で、100点満点であった。なんたって、私の知識でこの曲名は思いつくはずなどなかったからである。なぜなら、「そう言われれば、曲名だけはきいたことがあるような気がする。ただ、作曲家がだれかはまるで分からない」、これが、私のこの曲に対する知識の全部だったからである。

 しかも私の中でこの曲は、曲そのものを知らないのみならず、曲名だけがかすかにそれも「プロメテウスの造物主」という記憶だったからである。

 つまり私はラジオから流れてきた曲が、曲の感触から「ベートーベンらしい」と結論付けただけのことにしか過ぎなかったのである。たったそれだけの話である。そしてたったそれだけのこと、つまり私が自力でベートーベンの作曲であるというイメージを射止めたこと、それだけで十分な満足を覚えたのである。


                                     2019.1.16       佐々木利夫


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作曲家が分かったぞ