三題噺とは落語の演目の一つで、観客から適当な言葉や題目などを三つ即興で出してもらい、それらを織り込んだ話を提供する芸である。

 だからと言うわけではないけれど、その話は駄洒落や語呂合わせや親父ギャグ、更にはこじつけなどで構成され、そこに論理性や一貫性などはほとんど見られない。まあ、寄席での気楽なお遊びなのだし、その場なりの面白さがあるのだから、そこに整合性を求めること自体無茶な思いだろう。

 ところで最近、同じ日の新聞にこんな記事を見つけ、その三つをなんとなく結び付けてしまった。こんな内容の記事である(2019.12.15、朝日新聞)。

 @ 私の赤ちゃん勝手に触らないで 「・・・最近6カ月の息子を連れて受診しました。待合室で・・・80代くらいのご婦人に話しかけられ・・・息子の手足を触りました。見ず知らずの方に大切な子供、しかもまだ免疫力の低い赤ちゃんに触られることには抵抗があります。・・・どうか、・・・許可なしに触るのはやめて下さい」(東京都、31歳、主婦からの投書)

 A 「悪夢の耐性菌」国内じわり増加 「既存の抗菌薬がほぼ効かない海外発の強力な薬剤耐性を持つ大腸菌などの腸内細菌が、国内で増えつつある。国立感染症研究所によると・・・1年間で6都県から16都道府県に広がっていた」

 B 石炭火力 批判浴びる日本 「スペインで開かれている第25回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP25)で、多くの石炭火力発電所の新設計画がある日本は、連日厳しい批判にさらされた。・・・期間中、日本は・・・2回、・・・温暖化対策に後ろ向きと認定され、・・・不名誉な賞『化石賞』を贈られた」


 
この三つの記事には、何の関連もない。それぞれ完全に無関係な話題である。それでもこれらを読んで、ふと、「ああこれは、人類の終わりを示唆しているな」と感じたのである。

 これらの話題が、直接人間の未来に悪影響を与えていると思ったわけではない。「可愛いね」と、赤ちゃんに触れる行為があったっていいと思う。また、「汚い手で触らないで」と思う母親の気持ちも分からないではない。もちろん「汚い手」かどうかは各人の立場によって異なるだろうから、当事者それぞれの価値観の違いによるものだろう。

 「汚い」と言われて傷つく人もいるだろうし、「バイキン」と呼ばれていじめと感じる小学生もいるだろう。また、トイレに行って手を洗わないまま、赤ちゃんや食品に触る人もいるだろう。考えて見れば、「キス」だって見方によればとてつもなく不衛生な行為であり、互いの好悪で真反対な感触になる行為である。

 「まあ、そんなに固苦しくならないで」が、どこまで許されるかの問題なのかもしれない。現代が対人関係におけるそうした許容範囲というか、互いを許せるキャパシティが小さくなっているのかもしれない。でも極論ではあるが、一人一人がそれぞれ異なったアレルギーを持つような現代である。触ることがそれと無関係とは言えないとも思える。

 しかもそうした許容できる範囲の縮小に加えて、二番目の記事の耐性菌の拡大は更なる火をつける。耐性菌の増加を記事は「悪夢」と捉えているが、病原菌にとってみれば自らに耐性をつけることは悪ではない。それは「人間にとっての悪」かもしれないけれど、自らへの攻撃に耐性を獲得することは、病原菌にとっては生き残りを賭けた当然の進化である。

 病原菌とて生物である。「生き残る」ことは、生命にとっては疑う余地のない至上命令である。何にも増して子孫を残すこと、そして種として生き残ること、それこそが生命に与えられた唯一絶対的な命題だと思うのである。

 病原菌が地球の生命史上、どんな位置を占めているのか、私に分かっているわけではない。それでも、人類の歴史が数十万年程度であるのに対し、病原菌のそれは数億年、数十億年に及ぶであろうことくらいは分かる。

 人類が病原菌と、どこまで進化の過程を共有していたかは分からない。でも病原菌は、現代までその姿のまま生延びてきたのである。そしてこれからも生延びるべく、地球の続く限り進化を繰り返していくことだろう。なぜなら、それこそが生命の宿命なのだからである。

 しかも人類の進化は数十年を一代とし、数世代、数十世代では足りない、恐らく数百世代を単位として始めて目に見える進化となるのではないか。それに対し、病原菌の一代はこれも私には知識はないのだが、数時間、数日で足りることだってあるのではないだろうか。つまり進化の速度は、人類は病原菌にまるで叶わないということである。

 人と病原菌の進化の勝敗は、始めから決まっている。間違っていることを承知で言うのだけれど、人類は様々な変化に対して進化で対処することはできないのである。これに対し、病原菌は無限とも言える進化の時間を約束されている。

 そして三番目の記事の地球環境の変化が、更なる追い討ちをかける。地球温暖化に対して、人類はたかだか化石燃料の使用を減らす、再生可能エネルギーの開発を急ぐ、そんなことくらいしか打つ手を知らない。つまり、人間は温暖化と言う僅かな環境の変化に対しても、進化で対応することなぞできないのである。

 僅か数度の地球温暖化に、人類は生き延びることすら難しくなってきている。耐熱性の能力を持った人類の誕生で対処することも、必要な食物が今の半分で足りる新しい人類の誕生と言った進化を遂げることも不可能である。

 かたや病原菌もウイルスも、恐らく自在と言ってもいいほどの進化に対する適応性を持っている。人間は生き残れないけれど、ウイルスは進化の態様を変えることで、自在に生き残ることができるのである。

 かくて私の三題噺は、人類に未来はないという、極めてお粗末なこじつけになってしまった。未来にはゴキブリが残るのか、ウイルスが残るのか、はたまた人工知能というマシンが生き残るのかは分からない。それでも少なくも人類という生物種に、未来はないように思える。

 人類終末論は先週もここへかいたばかりである(別稿「老いのあとさき」参照)。今週もなぜか同じような話題になってしまった。人類の未来よりも自身の未来を考えろ、と言われそうだが、人類の終末、これが私の三題噺の「落ち」である。・・・お後がよろしいようで・・・。


                    2019.12.18        佐々木利夫


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