今年も74回目の終戦の日、八月十五日を迎えた。それに合わせた訳ではないだろうが、最近、昭和天皇に仕えた宮内庁の初代長官のメモが発表された。新しい昭和史、昭和天皇史の発見につながると騒がれている。

 そのメモに直接関係する話題ではないのだが、私にはどこかに昭和天皇に対する割り切れない思いがずーっと残っている。それは、私が残る5ヶ月ほどで80歳を迎える高齢になったこと、そしてそれはそのまま昭和かつ戦後の生き残りの年齢であることに起因しているからなのかもしれない。

 もちろん、私の昭和天皇に対する知識は微々たるものである。もしかしたら私の抱いている天皇像は、誤解と偏見と混乱の中の思い込みに満ちており、単なる身勝手な屁理屈なのかもしれない。

 それでも、私の中ではどこかで昭和天皇を巡る戦争責任みたいな思いが解決できないでいる。もちろんその戦争とは、1937(昭和12)年に日本と中華民国の間で起きた日中戦争と、それに連なる第二次世界大戦のことである。

 なにしろこの戦争で、その数240万とも310万人ともされる膨大な数の日本人が戦没者、つまり戦争で死んだとされているからである。この死者数は余りにも大きすぎて、ほとんど現実感を伴わない。それでもその死が、戦没者数だけでなく、死んだ人一人一人に関わる家族や知人などの、膨大な思いにつながっている死であることは明らかである。

 そうした思いは、「戦争とはそういうものだ」と言ってしまうには余りにも大きく、そして悲惨な数字である。しかもこれは日本人だけの死者数であって、その数は分からないものの日本人もまた敵国たる相手国の兵士や住人を同じように殺したのである。

 天皇に戦争責任はあるのか、その法的な根拠を私は必ずしもきちんと理解できているわけではない。東京裁判では、天皇陛下は被告人になることすらなかった。だから、形式的には天皇陛下は戦争の責任を負わない立場にあったと言えるのかもしれない。

 そうした事実が、法的に戦犯でないことの証しになるのか、それとも単に政治的な駆け引きの結果としての答でしかなかったのか、そんなことすら私はしらない。

 それでも天皇陛下が戦争と無関係であったとは、私にはどうしても思えないのである。まず天皇が日本国の代表だったと言う事実が挙げられるだろう。それがどんな意味を持つのかも私には理解できていないのだが、天皇は日本国そのものだったことは否定できないように思う。

 日本の場合、天皇の代表性はひとえにその神格化にある。天皇陛下は神だったのである。現人神(あらひとがみ)として、天皇は事実上国民の上にある絶対者として君臨していたのである。本当の神でないことくらい知っている。だが、天皇は神そのものとしてあがめられ、かつそう思うように国民は強制されてきたのである。

 御前会議が日本の開戦を決定し、継続させたと言われている。戦前における昭和天皇の地位は、明治憲法に定められている。そしてその憲法下に置かれた明治政府の基本方針は、「五箇条の御誓文」としてその第一条はこんな風に定めている。

 「廣く會議を興し萬機公論に決すべし」(ひろくかいぎをおこしばんきこうろんにけっすべし)

 「萬機」とはあらゆる重要事項のことであり、戦争がその中に含まれるだろうことくらい当然に理解できる。そして公論とは「みんなの意見」であり、「公開された議論」のことである。政府は、重要なことは皆の意見を聞いて決めなければならないと、自己規制しているのである。

 にも関わらず、明治憲法は日本国の統治権を天皇に委ね(一条)、しかも「天皇は神聖にして侵すべからず」(三条)としているのである。まさに天皇は日本国の全てについて、絶対的な権限を有していたのである。だからこそ開戦を含む日本の将来を、「御前会議」たる天皇の面前における裁可に委ねたのである。

 そして天皇は、御前会議で開戦を承認したのである。宣戦布告の裁可を下したのである。しかしそのとき天皇は、「戦争における個々人の死」まできちんと考えていたのだろうか。数としての死ではなく、死は一人一人の死の積み重ねであること、それが戦争と死なのだということについて考えたのだろうか。

 天皇の抱いた死は、単なる「数」でしかなかったのではないだろうか。爆弾ではらわたをえぐられ、ひもじさで餓死する兵士や国民、そして無差別に殺される国民の無残な死に様を、そしてそうした死が幾十万、幾百万になることを、天皇きちんと理解できてはいなかったのではないだろうか。

 しかも開戦を裁可すると言うことは、日本人もまた敵国への加害者になること、つまり日本人もまた殺戮者になることを承認、もしくは命じたと言うことなのである。そしてその通りになったのである。

 ただ、天皇にこれしきの想像力がなかったとは思えない。いかに神格化されているとはいえ、権力に奢る独裁者であったようには、少なくとも私の知る戦後の天皇の姿勢からは見えてこないからである。では、知っていながら、そうした国民の死や他者の死に対する思いは無視したのだろうか。国民の死や相手国民の死は、国益の名の下に已む無しと考えたのだろうか。それとも、有形無形の何らかの形で無視することを強要されたのだろうか。


                          「昭和天皇の罪 2」へ続けます。


                        2019.8.22       佐々木利夫


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昭和天皇の罪 1