「昭和天皇の罪 1」からの続きです。

 いまさら昭和天皇の戦争責任について書いたところで、戦後は最早74年も前の話である。既に昭和天皇は31年前に崩御し、その皇太子も平成の31年を経て今年5月に天皇を退位して上皇となった。現在はその孫である令和天皇の時代である。

 だからまさに「いまさら」と思わないではない。だが、昭和の生き残りで間もなく80歳になる私にとって、この大東亜戦争とも太平洋戦争とも言われる第二次世界大戦に関わった昭和天皇への思いは、どこかですっきりしない心を残しているのである。

 その根拠は、極めて単純である。戦前の昭和天皇の地位は、今から74年以上も前のことではあるけれど、現行憲法下における「象徴」とは異なって、絶対権力者だったからである。その一つだけで、天皇に戦争責任がなかったという理屈はどうしても通じないように思えてならないのである。

 確かに東京軍事裁判で、天皇が被告になることはなかった。それは恐らくGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に対して、「天皇を被告にしてはならない」と考えた当時の政治家や学者などが必死の思いで画策したからなのかもしれない。仮にそうだったとしても、それは天皇が戦犯でないとする根拠には、少しもなりえないのではないだろうか。

 そうした天皇の罪に対する思いが、東京裁判にもかかわらず、私の中でぐずくずと未解決のまま残っている。それが、今回発表された田島宮内庁長官の「拝謁記」の中で、天皇自らが戦争責任を感じていることが明らかになったことで、再び蘇ってきたのである。

 拝謁記の中で、天皇は長官に向かい、サンフランシスコ講和条約発効を祝う1952年5月3日の式典に向けた「おことば」の草稿の中に、「私ハどうしても反省といふ文字を入れねばと思ふ」と述べていたことが明らかになった。

 敗戦から7年目のことである。つまり、昭和天皇は自らが反省すべきだと主張したことが明らかになったのである。でも考えても欲しい。この戦争の責任は、単に「反省」の一言を入れるだけで済むような簡単なものではないのではないだろうか。確かにこの草稿は天皇の口から発せられるという意味では、天皇自らの気持ちの表明でもあるが、同時に世界に対する日本国の立場を表明するものでもある。

 だとするなら、単なる個人的メッセージとは必ずしも相容れないものがあるだろう。だから「おことば」には、反省の文字が入れられなかったのかもしれない。それでも、天皇が戦争と言う犯罪を犯したことは紛れもない事実であり、それを自身も認めていることがこの一言に示されている。

 確かに御前会議といえども、会議と名づけられている以上、天皇の独裁ではなかっただろうと思う。でも、それは現在我々が考えているような会議の結論を議長が下すのとはまるで違っていたと思うのである。

 天皇は神だったのである。戦後「人間宣言」をしたけれど、戦時は現人神そのものだったのである。それは、戦争を始めることも、続けることも、そして戦争をやめることも.、自らの権能でできたことを示している。それができるからこその「現人神」だったのである。そして臣民としての国民は、そうした神(天皇)の意思に従うことを、日本人のあるべき姿として教え込まれてきたのである。

 もちろん天皇も人であり、様々な思いがあったとは思う。それでも結果として、開戦を裁可し、その継続を決めたのは天皇である。それにしても前回述べたとおり、この戦争による死者数(240万とも310万とも)は異常である。それを知りつつ、天皇はこの戦争を決め拡大させたのである。二発の原爆が投下されるまで戦争を続けたのである。それは、加害者としての戦争責任もまた、天皇にあることを示している。

 「拝謁記」の研究者の解説によれば、「反省を口にすれば退位につながりかねない。皇太子がまだ若い現状では難しいと懸念したのだろう」(2019.8.20、朝日新聞)とある。また戦時中、皇太子が軍のある特定の地位に着くことを、天皇が何度も拒否したこともテレビで解説していた(2019.8、NHK ETV特集「昭和天皇は何を語ったか〜初公開"拝謁記"に迫る」)。皇太子が実際に戦地に赴くことなどないのだろうが、それはつまり自らの子供に対して一種の兵役義務を拒否したことになるのではないだろうか。

 親の心情として天皇の気持ちが分からないではない。むしろ共感できるとすら思う。そうした思いは、むしろ国民の多くの思いと共通するものでもあろう。でもそれは私情であり、権力の乱用ではないだろうか。国民には兵役の義務を課し、他方で我が子にはその義務を課さない、そんな私情で日本を動かすことなど到底許されるものではない。

 私には、自らにその権限がありながら戦争を止められなかった責任、それが天皇にはあると思う。それは単に反省と言う言葉を述べるかどうかではなく、もっと痛切な思い、更にいうなら痛切を超えて、断腸の思いで発する「私が悪かった」とする言葉こそ必要だったのではないだろうか。

 天皇の罪は、第一に戦争を止められなかったこと、そして第二にその自己責任を明確に国民に生涯表明することはなかったことの二点にあると思う。昭和63年、1988年に天皇は崩御し、自らの意思どおり皇太子が平成天皇としてその地位を継承した。そして平成は31年を経て、今年その孫である令和天皇が即位し、皇室の安泰は続いている。

 天皇の思いとは、つまるところ自らの家系の存続を願うことにあったのだろうか。そして家族の安定こそがその基本にあったのだろうか。私たちはそのために戦争に巻き込まれ、戦死し家族を失い、多くの財産を失ったのだろうか。しかも天皇の罪は、我々を加害者に仕立てたことにも及ぶのである。

 天皇は軍部の台頭を止められなかったと言うかもしれない。軍による下克上を阻止できなかったと言うかもしれない。だがそれは、押え切れなくなってからの言い訳である。軍部の膨張を放置していた絶対権力者としては、言ってはならぬ言い訳である。

 そしてそして歴史は、そうした天皇の戦争責任など少しもなかったことにして、有耶無耶のままである。国民はこんなまま、本人、子、孫、そして曾孫へと過ぎ去っていくのだろうか。それでいいのだろうか。私たちはそんなことなど、少しも気にしないまま、こうした事実を歴史の中に埋没させてしまっていいのだろうか。それが国民全部の意思なのだろうか。政治家も、学者も、そして一般市民も、その子も孫も曾孫も、そして更に続くその子らも・・・。


                    2019.8.28        佐々木利夫


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昭和天皇の罪 2