もっともっと議論すべきテーマだと思えるのに、世の中の人々にとって安楽死は、一過性の忘れてしまえる話題なのだろうか。それとも、死について考えること自体が、私たちの中では今でもタブー視されているのだろうか。

 難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者から自死を頼まれて実行したとする、いわゆる嘱託殺人罪で医師二人が逮捕されたのはつい先月末のことだった(2020.7.28、京都府警)。衝撃的な話題であり、まさに「生きるとは何か」、「死とは何か」を取り上げる絶好の機会だと思えたのだが、メディアはこの話題は既に過去のものとして、再び取り上げようなことはなくなってきている。

 別にALSだけが、安楽死と結びつくものではないだろう。自殺したいと願うあらゆる願望の背景に、この問題は付きまとう。原因は様々だろうけれど、恐らくは背景に「耐え難い苦痛」が存在する。たとえそれが病気に伴う肉体的な苦痛であれ、生きる気力をなくした精神的な苦痛であれ、少なくとも自死を願う本人に、「生きている苦しさから解放されたい」とする思いが存在していることに疑いはないだろう。

 そうしたとき、「誰だって生きたいはずだ。・・・亡くなられた女性も、『生きたいんだ!、だけど!』、と心の奥底では叫んでいたような気がしてなりません」(20208.8、愛知県、68歳女性、朝日新聞投稿、声)のように解するのは間違いだろう。「はずだ」では答にならないからである。

 日本の刑法では、自死もまた殺人罪を構成する。自らを自らの手で殺めるという行為は、まさに「人が人を殺す」という刑法の構成要件に該当する。刑法199条は「人を殺したるものは死刑・・・」と規定しているのみだからである。

 ただ、加害者と被害者が同一人であり、加害者たる犯人は、同時に被害者として既に死亡しているのだから、事実上逮捕することは不可能である。だから犯罪として処罰されることはない。つまり、外形的には逮捕・拘留・裁判・処罰などは行われないことになる。

 今回の安楽死事件で自死を嘱託した患者(女性、51歳)の死を、単純に安楽死と割り切ってしまうのには疑問もあるだろう。嘱託の意志はある程度感じられるものの、受け手との関係は必ずしも安楽死概念にはそぐわないようにも思えるからである。

 それは現在安楽死は必ずしも社会的にも法的にも容認されていないことにある。つまり自死を希望するもの身勝手な犯罪行為への希望、受け手の非合法な参加という形にならざるを得ないからである。

 今回の安楽死も、必ずしも純粋な行為の積み重ねとは必ずしも言えない側面を持っている。嘱託する側の金銭の支払いは、止むを得ないものがあるだろう。「金のない者には安楽死は許されないのか」と言ってしまえば元も子もないけれど、健康保険なり生活保護法などで安楽死が認められない以上、金銭問題は無視できないからである。

 現在スイスでは安楽死が認められていると聞く。アメリカでも州によっては認められていると聞いたことがある。そのほかにも、世界の各国で安楽死が身近な話題になっていることも知ってる。

 だが、そうした情報を探し出し、協力者を見つけ、旅費や治療費や滞在費などを考えると、現状では金のない者に安楽死が不可能であることくらい、誰にでも分かる。

 また、今回は医師二人(一人は医師資格が偽装ではないかと言われている)が、殺人に関わっており、その関わり方にも胡散臭いものがある。法的に認められていない行為であることの認識はあったようなので、必然的に秘匿された行為になるだろうし、同時に隠蔽行為なども必然になるだろうからである。

 そうした隠蔽などの行為が、必ず゚しも客観的な悪である必要はないだろう。例えば時の権力に反抗しようとする場合や、自らが正当と考える思いが社会的に承認されていない場合なども、隠蔽に走るだろうからである。自らの意思としてはいかに正当な行為であっても、時の権力や社会の流れがそれを承認しないような場合、その行為はその力から非難され禁止されるからである。そしてときに封殺されてしまうような場合だってあるだろうからである。

 その辺のいわゆる「犯行を隠す行為」がどこまで許されるかは、安楽死に対する各人の考え方により異なるとは思う。社会に安楽死の正当性を堂々と訴える、という立場をとるか、消極的にひっそりと安楽死を引き受けるかは様々だろうからである。

 後者の場合だって、必ずしも犯罪であることの自認は明確ではない。「死ぬほど苦しい」を助ける行為、つまり自死を補助する行為は、介助している肉親などに多く見られる行為であはあるけれど、必ずしも「犯罪加担」の意識とは隔絶しているように思える。

 そうした思いは必ずしも肉親に限るものではないだろう。それは「死ぬほど苦しい」に同調する度合い、つまりは共感度にも相当程度影響されるだろうからである。

 さてそうした場合の共感の程度である。肉親などの場合は、死を希望する者と共通する意識がそこに働くような気がする。それに対して例えば肉親以外の者の意識の中には、例えば安楽死に対する哲学的な信条のような意識が入り込んでくるのではないだろうか。

 そうなると、前提として「死ぬほど苦しい」があるとは思うけれど、その希望する死への関わりは、「希望する死への客観的参加」という全く別次元の思いへと変化してしまうような気がする。それはまさに他者の死への参加である。

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 「他者の死」という言葉が出てきてしまったとたん、安楽死が分からなくなってしまった。命は誰のものかという、根源的な問いに対する疑問である。後半、「安楽死2」へ続けます。


                        2020.8.13        佐々木利夫


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