「安楽死」の続編です。

 死はもともと厄介なものだとは感じていた。それは生きている者は必ず死ぬという大命題が、当たり前のこととして私や私たちに必ずしもきちんと浸透していないことの証左なのかもしれない。

 一つの考えとして、「私の命は100%私のものである」とする思いがある。常識的に見て、そうした思いに不都合な点はない。人は生まれて生き続けるのだし、平均寿命への思いがどこまで浸透しているかはともかく、今日の私は明日もそのまま生きているだろうことに、さして疑問は抱かないからである。

 つまり「人は必ず死ぬ」ことは抽象的には誰もが知ってはいるけれど、具体的には「生きている人は死なない」のである。今の命は明日も続くのである。学校は明日も、夏休みの後も続くのだし、テレビドラマは明日その続きを見ることができるのである。

 約束とは確実にくる未来を想定したものだし、いつでも出来る。結婚の約束だって結婚の意志が変わることはあるかも知れないけれど、式場を予約し招待状を発送することだって可能である。

 ところが死は違う。死はいつも不意打ちであり不確定である。「必ず死ぬ」ことは確実であるのに対し、死はいつの場合も不確定のまま私たちの回りをうろついている。

 確かに「明日一日生きている」ことの絶対的な保証はない。それでも私たちは、明日どころか来年も10年後も生きていることを前提に、己の人生を作ろうとしている。それは仮定かもしれないけれど、「私だけの人生」である。他者と交換したり、一部を代替したりするようなことは考えられない。

 そうした意味では「私の命」は「私だけの命」である。揺るぎない絶対としての「私だけの命」である。そうした命の存在に確信を持ってはいるものの、「本当にそうか」と自問してみると、その答の中にどこか揺らぎがある。それは「果たして所有権と同じように考えていいのか」との、比較からくる揺らぎである。

 所有権の本質は、「使用、収益、処分」である。所有権が人間本来の持つ根源的なものなのか、それとも後発的に付与され発明されたものなのか、必ずしも私に分かっているわけではない。恐らく後発的に発明されたものだとは思うけれど、人間の本質を構成するものとして世界共通の観念として私達の社会に備わっている。

 命はどこまで「自分のもの」なのだろうか。100%との気持ちも分かるし、同時に0%であることもあながち否定できないような気がする。これは自己矛盾である。100と0とが同時に成立することなど、決してあり得ないからである。

 それでも私たちは、この自己矛盾を時として許容することがある。でもその場合の理屈は所有権の理屈とは違うような気がしている。「使用することができる」、「収益することができる」、「処分することができる」の成立とはまるで別の、「使用してはいけない」、「収益してはいけない」、「処分してはいけない」になるからである。

 「できる」は、所有権の基本的な権能として内在されているにもかかわらず、「してはいけない」は内在しているとは言えないからである。ならば「命」は個々人の所有権とは無関係なのか。

 ここにきて、私は私の命に対する思いの限界にぶつかる。私の命が「私だけのもの」であることに、何の疑問もない。仮に医師に重大で危険な手術を任せたとして、そして「仮に手術に失敗して命を落とすようなことがあったとしても、已むを得ません」と同意したとしても、それはその医師に私の命の処分を任せたわけではない。手術の成功こそが目的であり、その成功のためのリスクとして死があったとしてもそのリスクを承認するだけの意思表示にしか過ぎないからである。

 外形的には、私は私の命の処分を医師に委ねたことになる。同意書はまさにそのことを明示している。だが私は「私の命の処分」を委ねたわけではない。そうすると私は「私の命の処分する権利」を制限されていると考えるべきなのだろうか。

 もし、「処分を制限されている命」があるとしたなら、その命は果たして純粋な意味で、「私の命」なのだろうか。ここでも命のぐるぐる回りが始まってしまう。つまり「命はどこまで自分のものなのか」、に対する疑問であり迷いである。

 そんな迷いに答を見つけられないまま、それでも私は安楽死をどこかで認めたいと言う気持ちを抑えることができない。100%とは思わないけれど、命の権能の中に自死の権能が本質的に含まれているように思えてならない。それを尊厳死と呼ぶのか、それとも生きることそのものに内在する機能と考えていいのか、必ずしも分からない。

 分からないけれど、それもまた命そのものではないかと思うのである。成功するかどうかは分からないけれど、自死の選択は常に自らの意思だけで可能である。薬で、木の枝のロープで、密林での彷徨いで、皮や海への入水で、高所からの落下で、・・・人は様々な選択で自死してきた。

 多くの場合、その自死は自らだけの意思によるものである。その意思を他者が止めることなど、不可能である。説得で「自死の意思」を翻意することがあるというかもしれない。だがそれは自らの意思が変わったことによる効果であって、「自死の意思」が復活すれば、再び同じことを繰り返すことだろう

 だが「自死の意思」があるもかかわらず、例えば今回のALS(筋萎縮性側策硬化賞)の患者のように、自らで行動できないような場合や、意志はあっても気力がついていけないような場合などには、どうしても他者の介入が必要になってくる。

 その他者の意思や範囲などをどう解すべきなのか、我が国ではその議論が足りないように思えてならない。その現状は、「タブー」として「議論しない」だけにしか過ぎないのではないだろうか。私には安楽死もまた、命に内在する一つの権能として、居場所が与えられてしかるべきだと思う。

 自死または嘱託による自死を犯罪として禁止するだけでは、安楽死もまた落ち着き先の見当たらないまま私達の回りを彷徨うだけになってしまうのではないか。逃げることやタブー視することだけでは、答は見つからない。ちゃんと居場所を見つけてやらないと、命に対する私たちの思いもまた、混乱の中に埋もれてしまうような気がしてならない。


                        2020.8.15        佐々木利夫


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