新型コロナウィルスによる感染症が世界中に広まり、収束の気配など全く見られない。収束どころか、最近の世界の新規感染者数の累計は3,065万人にも及び(2020.9.20 WHO)、むしろ拡大に歯止めがかからないと言っていいほどである。

 この前コロナについてここへ書いたのは7月のことだった。そのときのタイトルは「コロナ1000万」だったから、僅か70日足らずの間に、新規患者数の累計は1000万から3000万へと増加したことになる。まさに感染爆発そのものである。

 今日書こうと思いついたのは、実はコロナに関してではない。「病気を隠す」という私たちの特性について、最近気になる新聞記事を読んだのがきっかけである。もっともその記事も、コロナウィルスが発端になってはいるのだが・・・。

 数日前の新聞に、「やめよう コロナいじめ」と題する記事が載った(2020.9.22、朝日)。内容は「心ないいじめや差別を防ごう」とするものだが、その記事の副見出しに「コロナになったら秘密にしたい32%」があった。

 小学生〜高校生1000人を対象とした調査結果だが、「もし自分や家族がコロナになったら、秘密にしたい」が32%、「コロナになった人とは、コロナが治ってもあまり一緒には遊びたくない」が22%と書かれていた。

 もう一つ別の副タイトルには、「『責めず暖かい言葉を』呼びかけ」とあった。そんなことくらい、言葉としてだけなら誰だって知っている、私は思った。記名式のアンケートをとって、その中に「コロナの患者を責めることは○か×か」を選択させたら、100%答えは決まってしまうのではないかと思ったのである。

 正しい答えは、誰もが知っているのである。だがその反面、正しい答を理解していることと、自らがその理解どおりの選択や行動をすることができるかは、まったく別なのである。

 ここでもう一度、新聞記事のアンケート調査に戻ってみよう。ここでは「コロナを隠す」、「コロナに罹った者とは、治っても付き合わない」の二つが書かれている。一応別立ての回答になっているけれど、根っ子は一つであることに気付くだろう。

 つまり、前者の「隠す」は、自分が被害者になることを避けることを意味し、後者は自らが加害者にななりうることを意味している。その是非は問うまい。被害者は常に弱くて正しい、加害者は全て強くて悪いというパターンは、見かけ上は一応もっともらしく見える。しかし、正邪と言うか善悪の基準は物事によって様々であり、一律には決められないものだと私は思っている。

 私たちだって、コロナに限らず病気であることはごく当たり前に秘匿するのではないだろうか。隠すことに、何か特別に利益があったりするような場合は、病気であることを公表するかも知れない。だが多くの場合、人は無意識に自らの病気を隠すのではないだろうか。

 考えても見て欲しい。人が病気を隠すのは、公表によって利益を得る可能性が考え難いからである。病気休暇をとれたり、場合によっては仕事をサボって喫茶店でのんびりしたり、パチンコにうつつを抜かすなどができるかもしれない。でもそれによって仕事を失ったり、閑職に追いやられたりする可能性だってある。

 数日の風邪などで、仕事や家事の責任とは無関係に過ごせる場合があるかも知れない。だがそれはせいぜいが「無関係」が限度であって、有利に働くことはない。無関係ですまなければ、自らの不利に直接関わってくることになる。

 つまり、自らが病気であるとの公表は、多くの場合「自己の不利」につながる可能性が高いのである。「自己の不利」から逃避することは、人間の(というより生物そのものの)基本的な本性である。

 そのことを理解しないまま、コロナいじめが単に自分の気に食わないと言うだけで、その行為を批判するのはむしろ誤りなのではないだろうか。しかも、コロナ問題は、「患者であるかないかに関わらず、他人とは接触するな」が公表された国の方針であり、また誰もが正しいと認める指針になっているのである。

 確かにこのアンケートには「コロナが治っても、なおその人を避けるか」という問いかけにはなっている。でも「治った」ことは、どんな方法で確認できるのだろうか。本人が治ったと言うだけで足りるのだろうか。

 病気であることを隠すのは、人の本性ではないかと書いた。これを少し拡張するなら、「コロナから治った」の宣言は、どこまで信用していいのだろうか。「コロナ患者になった」ことは、事実として問いかけの前提に含まれている。だとするなら、「治った」ことは、誰がどんな方法で公表するのだろうか。

 また、「コロナが治ったこと」の公表は、逆に言うなら「コロナ患者であったこと」の公表でもある。そのことと、病気を隠したいとの思いとの整合はどこに求めたらいいのだろうか。

 確かに記事は、「教員には正しい感染症の知識を伝え、課題を子どもと一緒に考えてほしい」とする識者のコメントで締めくくってはいる。でも考えてみるなら、このコメントには何の説得力もなく、何も伝えてはいないのである。

 コメントした者もそのことを知っているはずである。そして答が出せないことも知っているはずである。「戦争はやめよう」とは言えても、そのためにどうすればいいのかを伝えられないのである。その方法を知らないのである。知らないで、「国民と話し合おう」とか、「信頼こそが必要だ」などと抽象論を振りかざすだけなのである。

 それはコメントした者の能力不足からくるものなのかも知れない。でもこうした言い分が、多くの場面で氾濫している現状を見ると、もしかしたら人間とはそんなものなのかも知れないとつい思ってしまう。人は答を知らないまま、ただ突っ走るだけの生き物なのかも知れないと、このごろ少し思うようになってきている。


                        2020.9.22      佐々木利夫



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