新型コロナウィルスの感染者が、世界で1000万人を超えた。このことが過去のスペイン風邪やコレラや天然痘などを含む様々な世界的感染症の爆発とどのように対比すればいいのか、私には残念ながらその知識がない。

 ないけれど、世界で死者が50万人を超えているというデータは、やはり凄まじい恐怖ではないかと思う。感染者は必ず死ぬ、と言う程の恐怖ではないかもしれない。しかし、感染と「死の恐怖」とは裏腹な思いとして私達をおびえさせる。しかもこの死は病気によるものであり、伝染性なのである

 ネットで検索したところ、7日現在の世界の感染者数の累計は11,500,302人、死者数は535,759人との数字が出てきた。私が入院した今年の1月末頃からメディアが少しずつ騒ぎ出したことは既にここに書いた(別稿「新型コロナウイルス禍」参照)。

 それによると、1月末の世界の感染者累計は4515人、4月26日には約286万人とあるから、半年未満という短い期間に、まさに爆発と言ってもいいほどの増加があったことになる。しかも、アメリカ、中国、インド、ロシアなど感染者は世界に広まり、感染爆発は止まるところを知らないまでの様相を見せている。

 感染は大国のみへの拡大だけではない。アフリカや南米などの貧困国へも飛び火し、医療設備の不足とあいまって拡大の一途を辿っている。

 各国の対応はロックアウト(特定地域の閉鎖)から外出禁止や自粛、更にはマスク着用などまで様々ながら、基本的には人から人への感染を防ごうとする規制に動いている。そうした行動は必然的に経済の低迷へとつながっていく。

 そして経済は今やグローバルである。地域の経済だけでなく、貿易を通じた世界経済が混乱しつつある。規制を緩めると経済は上向くけれど感染者が増加する、人人感染防止に力を入れると経済は破綻する、こんな二律背反に世界中が陥っている。

 まさにコロナで死ぬか、それとも仕事を失って破産で死ぬかの極端な瀬戸際にいるのである。もちろん行政からの休業要請なのだから、生活できるだけの金をよこせとの要求が裏腹につきまとう。

 しかし政府だって基本的に金を持っているわけではない。国の原資はつまるところ税金しかない。紙幣を印刷することで見かけ上は金はできるけれど、金の価値は国の信用を背景とするものでしかない。国の信用が欠けてくれば、印刷された紙幣の価値はどんどん下がっていく。

 どこまで本当のことか知らないけれど、リュックサックに山のように紙幣を詰めていっても、パン一個しか買えない国が過去にはあったとの話を聞いたことがある。それは極端な作り話しなのかもしれないけれど、1万円の価値が千円にしかならない例を私たちは経験している。

 国としては経済の破綻の道を選ぶことはできない。行末は「国の破綻」につながるからである。ぞれではもう一方の選択は何かと問われるなら、感染爆発の放置である。感染が拡大していくことは、ウィルスの性質からして当然のことである。だがこれも無制限に選択することはできない。

 感染者から一定の割合で死者が出るからである。研究者の必死の努力にも関わらず、有効な医薬品は見つかっていない。いずれはどこかの国で特効薬が見つかるかもしれないけれど、今のところその目処はたっていない。

 感染を放置し自然治癒を待ち、自然な免疫力が人々に浸透していくのを待つという考えもあるとは思う。それも一つの考え方ではあるだろう。だがそれにはそうなるまでの期間、死者の増加を放置しなければならないことになる。

 多少の犠牲はやむを得ない、とする考えが、どこまで妥当するのか、私には分らない。「多少」をどう考えるかは、私たちは歴史の中て様々に試されてきた。戦争だって、そうした評価の一事例だろう。私の中にも、「多少」など一つとして許さないとは必ずしも割り切れない思いが残っている。

 ならば「多少」とは数なのか、それも私の中では混乱している。ならば、「一人の死者たりとも許さない」とするまでのコロナウィルスに対する覚悟が、人類共通の理念として求められているのだろうか。

 もちろん医療にも限界はあるだろう。いくら理念が「一人の死者も許さない」にあったとしても、手遅れになったり、治療方針が間違ったりするなど、様々の原因で死者が発生することは避けられないとは思う。だからと言って、その死が「一人の死者も許さない」と矛盾するとは思わない。

 でもそうした目標そのものが、果たしてどこまで正しいのか私には分からなくなってきている。それはつまり、「多少の死者は出てもかまわないのではないか」とまで言い切ってしまっていいのか、そのことに対する自問である。

 そんな言い方など金輪際許さない、と唱えることはできる。人の命は地球より重いと断ずることだってできる。でもそれが100パーセントの私の心底の思いかと問われるなら、どこかで忸怩たるものが残るのである。100パーセントの思いではないと、どこかで囁く私がいるのである。

     なんだか混乱してきています。「コロナ1000万人(2)」へ続けたいと思います。


                        2020.7.7        佐々木利夫


            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
コロナ1000万人