医師の説明によると、弁そのものは硬くなって機能が低下し回復は難しいそうである。それで牛の心臓(繊維組織)を加工した生体弁を、私の心臓内に埋め込んで代用させるそうである。なんとも奇妙な感触だが、わが身の弁がうまく機能していないというのだから仕方がない。重症大動脈弁狭窄症、これが私の病名である。自身の弁が高血圧や動脈硬化などが原因で硬くなり、機能が低下しているというのである。その結果、血流全体が滞っているらしい。
「牛の弁」というところに違和感のないでもないが、弁としてきちんと機能するのならやむを得ない。しかも、手術は開胸ではなくカテーテルで行えるというのだから、その点でも安心である。何たって私の弁膜症は「超重症」なのだから・・・。ここにいたって牛だ豚だ、カテーテルだ開胸だなどと好みや我がままを言ったりしている余地はない。埋め込むのは自己拡張型と言って、牛の弁そのものが自らの力で心臓内で広がり固定されるのだそうである。
ただ、この手術の合併症を記した文書には、脳障害、弁輪、心臓穿孔、冠動脈閉塞、不整脈、血管損傷、感染症などの起きる可能性があるなど、ものものしい言葉が続いている。しかも考えてみると、それらの症状はどれをとっても私の努力なり意志ではコントロールできないものばかりである。文書の締めくくりに、「疑問や不安があるときは看護師にお伝えください」とあるけれど、答はいつも決まっている。
「大丈夫ですよ」、「そんなことは滅多にありませんよ」・・・、である。そんな回答なら、合併症として患者に伝えること自体矛盾するのではないだろうか。合併症の可能性があることと、「そんなことは起きませんよ」と患者を説得することとは、どこまで両立するのだろうか。
手術は全身麻酔とのことである。前日にシャワーを浴び、陰毛・わきの下など必要な個所の剃毛などの準備が始まる。また、麻酔医からの説明、虫歯の抜歯などを受ける。夕食から絶食である。「拒否できるけれど、事実上拒否できない状況下での強制承認」があらゆる場面に求められる。
2月18日午後4時、手術開始。今日の三番目の手術だそうである。手術室へ運ばれ、麻酔を投与されたまでは記憶にあるものの、後のことは覚えていない。手術は無事に終わったとしばらくしてから知らされたが、実感はない。
だが数日すると、以前にはなかった胸の痛みがぶり返してくる。手術の後遺症なのかも知れないが、どうも変である。以前の胸の苦しさとは少し違うような気はするけれど、前回の狭心症手術後の感触と比べると感覚的には悪化しているような気さへする。
そのことを何度か看護師と医師に訴える。そして医師から伝えられたのが、意外な手術経過であった。TAVIそのものは成功したものの、かなり手こずった手術になったらしい。手術の過程で、直前に行った狭心症ステントを挿入した血管の近くを圧迫してしまい、狭心症手術の成果をダメにしてしまったと言うのである。
つまり二度目に行ったTAVIそのものは成功したものの、その手術が起因となって一度目の狭心症手術の効果をなくしてしまったというのである。そして新たにもう一度狭心症の手術をしなければならないと告げられた。しかも、以前のステントを再び元へ戻すことは、血管を新たに傷つける恐れがあるので難しいとの診たてである。
つまり狭心症が新たに再発したのである。しかも今度はカテーテル手術はできないとの宣告である。どうするのか。簡単である。胸を開いて狭くなった血管を新しい血管に取り替えると言うのである。つまり、バイパス手術である。新しい血管には、足の血管など様々な候補があるが今回は「内胸動脈」を使うと言う。
TAVI手術が失敗で、その結果最初の狭心症の手術の効果をなくしてしまったのかと、思わず口に出しそうになる。だがそれを口したところで、何の効果もないだろう。再度の手術を拒否することはできるかも知れないが、結局はどこかでバイパス手術を受けるしか選択の道はないだろうからである。
体力は温存されているので、引き続き本来なら不必要な三度目のバイパス手術を受けることになった。しかも今度は開胸して肋骨をマゲ、心臓を露出させて手術するのである。またも全身麻酔なのでその経過は知らない。目覚めたら一般病棟からICUのベッドにいた。
通常はここで一日過ごすだけで一般病棟へ戻れるのだそうだ。しかし私は、ここで三日間も悪夢を見続けることになる。麻酔が効いているのか、それとも痛み止めの注射や服薬が効を奏しているのか、特にどこかが痛いとか苦しいと言う感触はなかった。だがそれが逆に悪夢を誘発したのだろうか。
ただ延々と悪夢を見続けるのである。なぜか病室のベッドは真っ暗な個室にポツンと置かれ、しかも場所は中国か香港(どちらも行ったことはないのだが)なのだ。そこは入院患者数人程度の小さな医院の一室だと分かる。一人でベッドに寝かされ、身動きはできない。時折り、遠くから看護師らしい女性の声は聞こえてくるのだが、私の呼びかけにまるで耳を貸そうとはしてくれない。次第に声を大きくするのだが、完全に無視されている。
こうなれば応えてくれるまで、大声を出し続けるしかない。もしかしたらこのベッドは屋根裏の、薄汚れた壁の中に作られた隠し部屋の中にあるような気さへしてくる。聞こえる声は、その閉ざされた壁越しの声に違いない。そんな閉鎖された個室に、私は一人閉じ込められている。そんな私に気付いてもらうには、とにかく大声で助けを呼ぶしかない。
「助けてくれーーー」、何度繰り返しても壁の向こう側からは何の反応もない。私の苦しさには無反応・無視、もしくは聞こえていないのである。それならば、聞こえるまで声を荒げるしかない。「助けて」の懇願が無視されるのならば、今度は違う大声を出そう。
声が出ているのか、単に出しているつもりだけなのか、そんなことすら分からない。分からないけれど必死の思いで、それも何度も何度も届くまで伝えるしかない。最後には「殺されるーー」、「人殺しーー」・・・など、あらゆる呪詛を込めて壁の向こう側へと声を張り上げる。声が枯れるまで伝えるしかない。
「ピポクラテスの誓いを、お前達は知っているのか」、そんなことまで叫んだような気がする。香港の屋根裏部屋から解放されたのは、三日くらい経ってからである。単なる悪夢だけだったかもしれない。また現実に大声で病棟中に響き渡るように叫んでいたのかもしれない。錯乱と混乱の中に、私はICUの三日間を過ごしたのである。
喉元からへそのすぐ上まで、一直線に私の胸には手術の傷跡が残されている。痛みは特にないけれど、「動くな」が至上命令である。それは一般病棟へ移ってからも同様である。そして眠れない夜が続くようになり、入院しているそのことだけにつながる苦痛の日々が、次第に募ってくるようになったのである。
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この後日談は、別稿「
そして退院へ・・・」へと続きます。入院しているだけの苦痛が、ここまで強烈なものだとは気付きませんでした。もしかしたらそれは、私自身の弱さを示すものだけだったのかも知れません。そしてそれは、もしかするとここに書いたICUの悪夢をはるかに凌ぐものだったのかも知れません。
2020.4.18
佐々木利夫
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