北海道寿都町(すっつちょう、人口2867人、2020.4.1)の町長が、突然「わが町に核廃棄物最終処理場の誘致を検討する」と言い出した。そしてそれに呼応するかのように近くの神惠内村(かもえないむら、人口918人、2020.4.1)の議会も同じような声を上げだした。

 処理場の誘致先として立候補すると言うのではない。処理場に適しているかどうかを検討するための地域として、我が町村がふさわしいかを調査して欲しいと手を挙げたいということである。

 目的ははっきりしている。調査候補地として手を挙げるだけでもらえる、20億円とも言われる国からの交付金である。そして仮に適地として選定された場合には70億円とも言われる交付金が追加され、更に続く処理場建設やその維持のために将来にわたる経済効果も期待できるのである。

 現在ほとんどの市町村が人口減少や福祉の増加などに伴う財政難に悩まされている。税収の減少に加えて、財政支出のほうは増大する一方だからである。

 「このままではやがて我が町は消えてしまう」、こうした危機感が多くの自治体に覆いかぶさってきている。日本全体が人口減に追い込まれ、少子化に加えて晩婚化や結婚しない人の増加などから、将来の人口増など到底見込まれない。更に東京などの都市への人口流入が、地方の過疎化に更なる拍車をかける。

 そんな時に、目の前のぶら下げられた人参である。その人参に食いつこうとする馬が悪いのか、それとも人参をぶら下げた人間が悪いのか、そこのところの議論はひとまず置いておこう。垂涎の人参に興味を示さないほうが不思議である。

 そして誰もが核燃料廃棄物(核のゴミ)のマイナスイメージを知っている。誘致の声をあげた町長や議会議員だってそんなことくらい知っている。けれども過疎化は、目の前の緊急課題である。そして対する危険のほうは単なる可能性でしかない。しかもその危機の起きるかもしれない時期は、ずーっと遠い先の話である。

 恐らく町が裕福だったり、単に「お前の土地に核廃棄物を廃棄する」と言われただけだったなら、住民はおろか自治体そのものだって、設置に大反対することだろう。何らかの見返りなしに賛成する者など、一人として存在しないだろう。

 そんな町や村の存亡のときに、振って湧いたような経済効果の人参である。適地かどうかの文書審査を受けるという、ただそれだけの調査に応ずるだけで、数十億億円の交付金を手にすることができるのである。しかも、もし仮に適地として選択されたとしたなら、追加の交付金を含めて永続的な経済効果だって見込まれるのである。

 放射能の危険は数十万年とも言われている。確かに危険も無限とも言える期間続くけれど、国が支援すると保障した経済効果もまた、無限に続くのである。

 こんな問題が起こったことに対して、新聞に識者からの論評が寄稿された。こんな内容である。

 「核のごみ問う」、「このまま決めていいのですか」、「拙速な判断、民主主義に反する」(2020.10.6、朝日新聞、前札幌市長・弁護士、上田文雄、72歳)。

 タイトルからも分かるように、寄稿者は核廃棄物の最終処分場の誘致には反対のようである。それはそれで構わない。賛成するのも反対するのもその人その人の意見であり、それぞれに尊重すべきだと思うからである。ただ、彼が寄稿した記事の中で、こんな風に述べているのが気になったのである。

 記事は次のような文章で始まる。「さまざまな手口の詐欺に共通するポイントは、判断を急がせるということ、だれかに相談させたり、ゆっくり考える時間を与えたりしていたら成功しない」。

 これを読んで私は、「おやっ・・・」と思ったのである。「最終処分場の立候補や選定を誘う行為は詐欺なのか」と思ったのである。私には「金で物事を買う・解決する」という、日本人にはあまり好かれない手法が、この施策には見え隠れしているように思えたけれど、その計画が詐欺だとは思えなかったからである。

 もちろん寄稿者はこの文章に続けて、「寿都町にも神恵内村にも、そんな意図はないと思いますが・・・」と、前段の詐欺を否定はしている。だが、寄稿の前提で彼は、「詐欺の疑い」を書いてしまっているのである。そのことで後半の否定は、ほとんど意味をなさないものになっていると私には思えたのである。

 その否定は、自己弁護のための単なる言い訳に過ぎないのではないかと思えたのである。詐欺だった場合には「だから言ったじゃないの」と言えるし、詐欺でなかった場合には、「詐欺だと断定したわけではない。その証拠に町村にはそんな意図はないと思うと否定しているではないか」と言えるからである。

 彼はいずれにも言い訳できるように最初からどっちつかずの文章を書いたのである。それでも例示にしろ、この最終処理場の問題を、詐欺を例示とする文章で書き出したことで、彼は詐欺だと断定したことになると思うのである。

 こうした書き方は、彼のような肩書きを明示したいわゆる識者の弁としては誤りだと思う。こんな言い方を許してしまったら、どんな意見も無責任のまま垂れ流しになってしまうからである。責任ある者の責任ある意見にはならないように思えたからである。

 もちろんこの処分場を巡る駆け引きがどんな思惑で行われたのか、また今後どんな展開を見せるのかを知ることなどできない。当面の当事者は、町長とNUMO(原子力発電環境整備機構)である。だがその背後には、交付金を支出する国や政府、今後そこに住み続ける地域住民、北海道、地元漁業協同組合、近隣市町村などの思惑が複雑に絡み合ってくる。

       終わらなくなりました。「核のゴミ(2)」に続けます。



                        2020.10.10      佐々木利夫



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