「核のゴミ(1)」の続きです。

 核廃棄物最終処理場の問題には、様々な人たちの様々な思惑が複雑に絡んでいることは分かる。だからといって、それぞれの思いが私の中で整理できているわけではない。

 町長の思惑だって、想像だけなら様々に考えられるだろう。最終処分場の完成、そしてその後に続く永続的な維持管理の予算措置にまで及んでいるかもしれないし、また単に、今回の文書審査による交付金だけを狙っているだけかもしれない。またその中間にだって、様々な選択肢が考えられる。

 また政府だって同様である。現状でこそ「書面上の審査だけです」とは言ってるものの、20億円もの交付金を支出するのだから、見返を考えていないとは考えにくい。「調査のための金は渡すが、後から建設を拒否されてもそのまま素直に引き下がる」つもりなど、普通は考えられない。

 翻意を促すどんな手段があるのか分からない。圧力か契約書の読み方か、それ以外の何らかの便宜供与か、更には直接的間接的なペナルティや不利益や報復が課すことなのか、結局は適地とされた町村が処分場建設を拒否できなくなるような、何らかの手段まで考えているのかもしれない。

 住民だってそうである。調査反対、建設反対などの声は上げるけれど、それがどこまで続き、どこまで広がり、そしていつまで続くのかは疑問である。道路一本、港湾改修一回、新幹線誘致、飛行場建設、学校建設、地域振興事業の促進などなど、地元に対する各種恩恵の供与などであっさりと考えが変わることだってあり得るだろう。

 また反対に、東北大震災のような原発事故が国内にしろ海外にしろ起き、それによって反対運動に拍車がかかることだって十分に考えられる。

 ましてや漁組や農協などの利益団体は、国や自治体からの資金援助などで、「漁民のため」、「農民のため」、「商店街振興のため」などと言った謳い文句にあっさりと惑わされることだってあり得る。

 人の心は惑いやすいといってしまえばそれまでのことだけれど、人は「今」に動かされやすい。そこを政治や行政は突いてくる。予算はそもそも国民や住民の税金を原資とするものである。だが一旦自らの懐を離れて国や自治体に入ってしまうと、税金に対して国民は突然無関心になる。

 そうした税金は巨大な資金源となって、国や自治体の思惑に影響されやすい財源となる。金は人を動かす力を持っている。納めた住民にとって、その租税はもう自分の金、自分の納めた税金ではなくなっている。租税はあたかも、予算執行者独自の資金でもあるかのように振る舞い出す。

 話がテーマから外れそうになってきた。話を元へ戻そう。世論は、基本的には政府や自治体や住民などの、個々ばらばらな思惑に翻弄される。その思惑は金もしくは予算と言う巨大な力を背景に身勝手に動き出す。その様々を「多様」という言葉で一くくりにしていいのかと゜うか、私にはまだ整理できていない。

 ただその力は、少なくとも国民の望む方向へと動かさなければならないことだけは確かである。その方向を左右し、示唆もしくは誘導する立場に識者なり専門家がいる。そしてそうした世論は選挙という形で集約されていく。

 世論がそんなにたやすく識者の意見に左右されるものだとは思わない。思わないけれど、少なくとも新聞やテレビなどの公共的な機関に公表されるような意見には、客観性というそれなりの責任が課されているのではないだろうか。

 政治に嘘はつき物だと言う。来月のアメリカ大統領選挙を巡るトランプ現大統領の多くの発言を捉えて、フェイクニュース(嘘の報道)が世界に蔓延しているとも言われる。それでもなお私は、今回の寄稿にはあたかも政府の思惑やそうした方向への誘導が詐欺でもあるかのような思いが託されている。

 「急いで決めるな」、「慎重に考えろ」、「慌てる乞食は貰いが少ない」、「急がば回れ」、「果報は寝て待て」などなど、拙速を戒める言葉は多い。

 でも戒めと同じように、「善は急げ」や「チャンスに後ろ髪はない」など、与えられた機会は逃すなと伝える言葉も多い。

 恐らく共に正しいのだろう。共に正しいのだから、結局は「自分で考えろ」ということなのだと思う。どちらが正しい選択だったかは、選択した者自らが、時間の経過の中でそれを判断することになるのだと思う。

 「判断を急ぐな」とある人が思い、それを他者に伝えたいと願うことを否定しようとは思わない。でも、そうした事実がないにもかかわらず、「詐欺かもしれない」との警告を伝えるような言い方をするのは、やっぱり間違いだと思うのである。

 しかもこの寄稿者は、無関係な前提を勝手に創設し、それを前提にある事象があたかも「詐欺」ででもあるかのように警告しているのである。そんな言い方は、間違いを超えて悪質なフェイク(嘘)になっているような気がしてならない。

 オレオレ詐欺みたいな特殊詐欺事件が相変わらず多発している。「電話が鳴ったら詐欺だと思え」、「身内からのお金の相談は詐欺を疑え」などが合言葉でもあるかのように、社会に詐欺は蔓延しているようにも思える。そんな時代なのだから、あらゆることどもに「嘘」を被せてしまうのは、生きるための知恵でかのように思えないではない。

 恐らくこの寄稿者も、「美味しい話には裏がある。急がないでちゃんと見据えてゆっくり判断して・・・」との警告を、この核廃棄物最終処理場建設に伴う政府提言にも適用させようと考えたのかもしれない。

 「急ぐな」、「気をつけろ」と警告することに異議はない。ただ、何の前提も立証もなしに、「詐欺の手口と同じだ、だから気をつけろ」とする警告は、新聞と言う公器を利用した寄稿文としては行き過ぎではないかと思ったのである。曲がった私のへそが反応してしまったのである。

 人類の発祥がいつ頃なのか、分からない。でも数千年前の我々は、縄文か弥生かはともかく放射能など知らない時代を過ごしていたのである。世界に目を向けても同様である。

 それが突然、数万年という規模の放射能処理を今突きつけられているのである。数千年という人類の過去と数万年もの未来との比較が、私の中で処理し仕切れない混乱を招いている。安全も安心も科学の発展も進化も、何もかにもがごちゃ混ぜの混沌の中に行き場を失っているのである。判断できないでいるのである。

 そんなときにこそ、「何にもしない」、つまり原子力やめよう、自動車やめよう、火星探検もやめよう、森林開発も遺伝子操作もやめようと考えることが、正しい選択なのではないのだろうかと思うのである。「少し休もう・・・」、が今の私たちに与えられた一番必要で大切な選択なのではないか、地球もそう叫んでいるのではないか、そんな風に思えるのである。



                        2020.10.16      佐々木利夫



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核のゴミ(2)