前回「詩や小説は重いのか-1」では、発信者の多様性、受信者の多様性が、相対的に言葉を軽くしているのではないかと書いた。

 それは多くの歴史が、発信者が特定の力ある者に限定されている時代で構成されていたからである。日本人の文盲率は世界的にも低いと聞いたことがある。寺子屋や義務教育制度などが、どこまで文盲率、識字率などに効果をもたらしたのか、私にそこまでの知識はない。それでも少なくとも言葉や文字の発達は、教育によるところが多いだろう。

 そしてそうした教育からの知識は、どちらかと言うと特権階級であるとか財政的に豊かな階級から浸透していったものと考えられる。それは情報の発信者、受信者双方に言えることである。そして多くの場合、権力者は発信者として君臨し、重い言葉を理解する勢力の拡大を望まなかった。

 従がわせることだけが権力者の望みであり、「自らが考える」ような言葉の重さを理解する能力は、不必要だと考えたからである。それは日本でもつい最近の、第二次世界大戦時代の昭和初期まで続いていた。

 世界に目を転じても、今でも同じように考えている権力者の存する国々は多岐にわたる。言論統制は権力者にとって当然のことであり、反政府、反権力への思いは封殺されてきたのである。

 だとするなら、現代のSNSなどに代表される言葉の変化や主張の多様性は、むしろ望ましい変化の方向になるのではないだろうか。多様であるということは、時に気に食わない意見や、人によっては低俗と思われる意見も出てくることを意味する。気に食わない意見だと感じ、間違っている意見だと思い、下らない意見だと蔑む、・・・、そうした感触を抱くこと自体が「言葉の変化」に対する一種の偏見になっているのではないだろうか。

 このように、濃い言葉とか重い言葉と言うのは、特定の少数者のもしかしたら偏った思いなのかもしれないのである。そうした意見に反対する思いが表れることで、その濃さや重さが薄れてくる、それが言葉全体が軽くなっているとの錯覚を与えるのではないだろうか。

 こう考えてくると、「言葉の軽さ」には、もう一つの側面が見えてくる。つまり、果たして言葉に軽重が存在するのだろうかとの疑問である。つまり、ある言葉を重いと感じ、もしくは軽いと感じるのは、そう思う人の独断であって、客観的基準などそもそも存在しないのではないかと言う疑問である。

 以前ここへ、例えばマラソンの勝者と人々を感涙に誘う詩人のいずれに月桂冠を与えるべきかの疑問を提示したことがある。この両者を比較すること自体に無理があることを示したのではないかと思う。

 そうしたことは、例えば言葉同士でも成立する。「詩」は一つのジャンルではあるが、作詩家が異なるごとに、作られた詩は異なるだろう。更に言うなら、同じ作詩家の作品であっても、作られた時代や作られた詩ごとにそれぞれ違いがあるだろう。

 つまりは、詩と一口に言っても詩の数だけ評価の数があり、好悪があるということである。ましてや、私がその詩に触れる機会はかなり偶然による場合がある。更に更に、たとえ触れる機会があったところで、その詩が私の知らない言語で発表されていたなら、その詩の思いは私には届かない。

 かように詩も文学も多様である。互いに比較すること自体がナンセンスであろう。確かに評価の高い(裏返すなら、好む人の多い)作詩者の作品があることを否定しない。そうした中でも、「特にこの作品」として好みが強調されるがあるだろうことも否定はしない。

 だがそれは「そうした傾向にある」だけに止まるのであり、その作品を嫌いだと感じる人もいれば、無関心な人もいると言うことである。それが、私たちの住んでいる世界なのである。全ての多様性を飲み込んで、私たちの世界は、どこまでも膨らんでいくのである。

 だから、詩が重いとか小説が重いとか言うのは、特定のジャンルに対する偏見でしか過ぎないのである。それは、「詩」と名づけたら全ての「詩」が重くなるという意識が偏見であることからも明らかである。

 仮に私が小説を書いたとする。小説とは何かを私は知らないけれど、それでも「小説を書いた」とする。ならばそれは、小説だという前提だけで重くなるわけではない。

 詩人とは何だろう。小説家とは誰のことを言うのだろう。詩が重いのは詩人だけの特権ではない。同じように小説が重いのは小説家の特権ではないと思う。詩や小説が重いと言い、その重さが軽くなったなどとのたもうのは、一種の狭隘である。

 同じように、俳句も音楽も絵画も、そして極論を言うならあらゆるスポーツも、比較可能なあらゆる分野そのものが、重いとか軽いとか、有意義だとか無駄だとか、必要があるとかないとかも含めて存在意義があると私は思っている。少なくとも私は、そんな風に思いながらこの寄稿の文章を読んだのである。


                                2020.1.11        佐々木利夫


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詩や小説は重いのか-2