「
メシが食える大人になる! もっと よのなか ルールブック」、新聞に掲載された書籍の広告文である。(2020.11.19 朝日新聞)。その中に、「内容(一部紹介)」としていくつかの箇条書きのキャッチコピーがあり、それが私のへそ曲がりのアンテナに引っかかったのである。
広告文にいちいち目くじらを立てることなんぞ大人げないと思っているし、書いてあることが荒唐無稽だと思っているわけでもない。そんなことを考える暇があったら、まず本を買って先に読めと、著者や出版社から言われそうだが、これもまた私の性分である。これで本当にメシが食えるのか、大人になれるのか・・・、そんなことを思いながらこれを書き出した。
@ 「よのなかの当たり前」を当たり前にやる。
「当たり前のこと」が、あたかも所与として我々の目前に予め与えられているかのような考えが、どうも気になる。ある事象が「当たり前」のことなのかどうかを、誰がどんな風に定めたのだろうか。「当然の当たり前」ということが、誰の目にも明らかにされているのだろうか。でも、そんなものが果たして当たり前のこととして存在しているのだろうか。
そうでなければ、この言葉の前提ものものが崩れてしまう。しかもその当たり前を「当たり前にやる」のである。本当に当たり前にやれるのだろうか。やることになんらかの努力がいるのだろうか。当たり前って、一体何なのだろうか。
A 成長は「だれか」とではなく、「昨日の自分」とくらべる。
成長しているかどうかを、他者とで゚はなく自分の昨日との比較で考えよと言う。人の成長は日進月歩だと、筆者は考えているらしい。ちっとも成長しない自分がいて、時に引きこもり、時に失敗し、時にうずくまってばかりいる。そんな自分もまた自分なのだと、見つめ、承認しているのもまた自分である。成長しつづけないでいる私は、敗北者なのか。
B 自分で自分の悪口を言わない。
自虐もまた、自分を育てる栄養素になるのではないか、自省することや内省とは結局自己否定の要素を潜在的にを含んでいるものなのではないか、そんな気がしてならない。そうした内省と「悪口」とは違うというかもしれない。だとするなら、悪口とは一体なんだろう。他者は私の悪口をなかなか言ってくれない。自分だけが、自分の悪口を言えるのではないだろうか。しかも真剣に・・・。
C あいさつは、どんなときでも、だれにでも、平等に。
ここで気になるのは平等である。人はあいさつの相手ごとに、口調や情緒や伝えたい気持ちを変えているように思う。妻へ、子どもへ、両親へ、友人へ、仲間へ、上司へ、コンビニの店員へ、先生や先輩へなどなど・・・。私たちは無数ともいえる他者と関わることで、自らの人生をその関わりに委ねている。あいさつもその一つのきっかけである。「誰にでも平等に」は言葉としては分らないではない。だがそれが平等であるとの思いは、私にはないものねだりのように思えてならない。不可能とも思える無理強いに思えてならない。
D 「損得」以外でも考える。
本当に人は損得を離れた行動ができるものなのだろうか。コンビニに行く。無意識に一番近い道を通って行く。特に理由がない限り最短距離を自動的に選んで歩く。食事をする。ご飯を一口口に入れ、おかずに箸を延ばす。こんな当たり前の無意識でも、そこに「無意識の損得」が含まれていることを、私はどこかで自覚している。「損得抜き」の行動や意識など、そもそも考えつかない自分がいる。寄付やおさい銭にも、どこか情緒的な自己満足や見返りみたいな感情がある。
E 「くやしい」も「うらやましい」もちゃんと口にする。
「くやしい」も「うらやましい」も、ちゃんと口にしない人生を送ってきた。口にすることはいいだろう。「くやしい」と絶叫するのだって少しも構わない。「うらやましい」と羨望し嫉妬するのもいいだろう。
でも誰に・・・。いったい誰に向かってくやしいと言えばいいのだろう。口惜しさを与えた相手にか、それともカウンセラーや弁護士にか、それともそれともまるっきり無関係な第三者に向かってか・・・。それとも真夜中の布団にくるまった私自身に対するひとり言でか。そしてそれは、口にするだけでいいのか・・・。
F 「習っていない」を言い訳にしない。
「習っていない」ことは、多くの場合「知らない」ことにつながる。知らないのは相手が教えなかったからなのか、それとも学ぼうとする自らの努力が足りなかったからなのか、またはその両者の混同によるものなのか。言い訳はなぜするのだろう。言い訳は嘘をつくことになるから、してはいけないことなのか。それとも言い訳はしてもいいけれど、「習っていない」との理由だけは使ってはならないのか。
「言い訳するな」は慣用句になるほど私たちの日常で使われてきたことばである。それは逆に言うなら、それほどまでに私たちの人生には言い訳が必要であることを示しているのではないか。
G 自分と同じように、相手にもルールがあることを認める。
その通りである。そして「争い」というのは、互いのルールがぶつかりあうことから発生する。筆者は「相手のルールも認めよ」と言う。それが理不尽なルールだと感じても、それでも相手のルールを承認せよということを言いたいのだろうか。相手の言いなりになることもまた、争いを避ける手段になりうる。争いが起こらなければ、とりあえず見かけ上は平穏が保たれるだろう。だから黙って耐えろ、筆者はそう言いたいのだろうか。だとするなら、否定された私のルールは放置されたまま宙に浮いてしまうのだろうか。
ルールブックの宣伝コピーはまだまだ続く。「
よのなかルールブック2」へ続けます。
2020.11.25 佐々木利夫
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