昨日が明けての今日が、とりたてて変わるわけではない。12月31日の翌日はお正月ではあるけれど、その日を12月32日としたところで、はたまた13月1日と考えたたところで、格別の変化はないだろうと思う。

 今日の日も同じである。昨日、ここへ「税理士廃業」とする雑文を発表した(別稿「税理士廃業」参照)。だから今日からの私は肩書きの消えた一市井人である。しかし、だからと言って昨日の私と今の私が格別に違っているわけではない。

 世の中が肩書き社会であることは前にも書いたことがあるけれど、「元」をつけてまで肩書きを重視しているのは、いかに日本社会が肩書きにまみれているかの証拠になるだろう。とするなら、私も立派な「元税理士」である。

 閑話休題。今日のテーマは、テレビで放映された「医師が撮影した映像を放送します」と、アナウンサーが番組の冒頭で話していたことが少し気になったことを取り上げたい。

 番組は、コロナの現場に潜入するとしたドキュメントである。世界中に感染が広がっているコロナウィルスである。入院してきた患者は厳格に管理され、医師や看護師も感染の恐怖を抱えながら向き合っている。

 そんな緊迫した状況に、いかに報道の自由の哲学を掲げたところで、カメラマンの撮影にウィルスからの承認が得られるはずなどない。原子炉爆発(2011.3.11、東日本大震災)では、防護服に身を固めた必死とも思えるカメラマンによる撮影がなされたが、それは他に代替の手段がなかつたからである。

 ところで、感染症の現場には、唯一患者と接触できる者がいる。医療スタッフである。医療関係者が患者に近づけなければ患者はそのまま放置され、病院は単なる死体置き場と化してしまうことだろう。

 だとすれば、ことの是非はともかくとして、担当する医療スタッフに撮影を依頼することは可能である。撮影のテクニックや撮影に向けた思いなど、様々な課題はあるかも知れないが、とにかく治療の現場や患者の近況などの撮影は可能になるだろう。

 「医師が撮影した映像」、そうした文言から、私は撮影者が医師だと思って画面を見ていた。ところが話が進んでいくうちに、その実態は医師の撮影ではないことに気付いたのである。

 医師は治療のために患者と接触しているのである。決してカメラ片手に治療と二刀流をこなしているのではない。実は放送された映像は、医師の首からぶら下げた自動カメラからの映像だったのである。

 そうした映像が、どの程度リモートでコントロールされているのか、もしくは単にぶら下げているだけで向きも焦点も固定されたままなのか、そんなことも私はしらない。場合によっては首からぶら下げたカメラを医師が、何らかの操作をすることができるのかもしれない。

 知らないで言うのだから、間違っているかもしれない。ただ私は、こうした操作によるカメラ映像を、「医師が撮影した」と呼んでもいいのだろうかと少し気になったのである。「撮影する」とは、カメラの操作がある特定の個人の意志でコントロールされている状態を意味しているように思えたからである。

 自動撮影カメラによる映像は、いたるところで見ることができる。木にしばりつけて赤外線でカメラの前を横切る動物の姿を捉えようとする試みがそうである。クマや鳥などの生態を私たちは、無人のカメラの自動スイッチのおかげで知ることができるのである。

 また、鳥や獣や魚の首にカメラやGPSなどをくくりつけて、飛行中や海中の遊泳中などの状況を、24時間連続して記録し、無線で映像を得る仕組みである。

 そうしたとき、木に縛りつけたカメラの映像は、「木が撮影した」と言うのだろうか。鳥や魚の首に巻きつけたカメラが周囲の状況を電池やフィルムが続く限り何日も撮影する、それは果たして「鳥が撮影した」、「魚が撮影した」といえるのだろうか。

 撮影者として表示するためには、撮影している者に、撮影しているという意志が必要なのではないかし私には思える。カメラをくくりつけられた樹木に、近づいてきた動物などを撮影するという意志は、恐らく皆無だと私には思える。

 また、首に自動撮影カメラをくくりつけられた動物や鳥や魚などが、仮に自分の行動していく先々の映像をそのカメラで撮影したとしても、果たして撮影者は「クマ」、「イルカ」だと言っていいのだろうか。

 そして今回の医師の首にぶら下げられたカメラによる撮影である。確かにその医師は、自分の首に自動カメラがぶら下げられていることを理解している。カメラを装着することの意味も理解し、そして承諾したことだろう。

 場合によってはそのカメラを特定の場面に向けるような意思だって持ち合わせているかもしれない。また、「右へ向いて」、「左を映して」、「もう少し近づいて」などなど、場合によってはカメラマンなど放送関係者から、無線による指示を受けている場合だって考えられる。

 だとすれば、そこに何らかの撮影者の意志の入り込む余地があるという意味で、単に「イルカの首に巻きつけられたカメラの映像」とは、多少違うような気がしないでもない。

 それでも私は、「撮影者が医師である」とするアナウンサーの思いには、どうにも理解が届かないのである。そうした思いは、例えば電波望遠鏡の信号をパソコンで解析して画像化した遥か100万光年彼方の星雲の写真、医師の指示で技師が撮影したレントゲン画像、24時間連続で撮影された画像から一定の駒数を選んで動画化した映像作品などなど、果たして「撮影者」とは何なのだろうと、次第に混乱してくるのである。


                        2020.6.16        佐々木利夫


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