私は高校を卒業して国家公務員への道を選んだ。一学年百数十人の高校で、大学への進学を希望するのは、数人しかいなかったように記憶しているから、自分が大学へ行くことなど考えたこともなかった。

 1940年生まれの私にとって、高校進学自体が一種のエリートコースであった。中学までは義務教育だったから、多くのクラスメートは男は就職し、女は結婚のための準備や仮就職の道を選んだ。それでも高校進学はそれほど珍しい選択ではなく、卒業生の半数ほどが高校進学を選択したように思う。

 ともあれ大学は、経済的に余裕のある家庭の、しかも秀才が行くところで、「中学もしくは高校が最終学歴」、これが当時の社会人になる若者の当たり前のスタイルだった。

 とは言っても、当時の卒業生にとって国家公務員はそれほど人気のある職業ではなかった。つたない私の記憶によれば、多くは銀行、鉄道、地元有名商店などに希望が偏っていて、公務員志望の多くはせいぜいが地元市役所だったような気がしている。

 国家公務員の募集は、「一般職」、「郵政職」、「税務職」の三つの職種に分かれていた。一般職公務員と言われても、夕張と言う炭鉱町で過ごした私には何も思いつかない。郵政職は郵便配達であり、税務職は知る限り差押の執達吏の姿が空想的に浮かぶだけであった。つまり、「国家公務員」は職業としての具体的選択肢としてのイメージが湧いてこないのである。

 ただ就職希望に当たって先生から、去年と一昨年の2年続けて国家公務員の税務職に合格した卒業生がいたとの話を聞かされた記憶がある。どうもそれがこの道を選択した動機になっているような気がする。

 ともあれ合格して、札幌の税務講習所と呼ばれる全寮制の研修所へ入った。一年間、ここで税に関する法律や手続、それに一般的な六法と呼ばれる法律の勉強を叩き込まれる。チンプンカンプンな分野ではあるが、聞いたことすらない分野の学問を、北海道大学などの教授が研修所まで出向いて講義してくれるのは、それなり興味があった。

 研修生総勢30名、寮は一部屋4人の畳敷きであった。小学校から高校まで、自宅との往復だけで過ごしてきた田舎育ちの私にとって、札幌という北海道一の都会での寮生活は、私生活も含めて楽しいものであった。喫茶店通い、スクェアダンスのグループへの参加、同室の友人から教えられたギターの爪弾きなどなど、これまでに経験したことのない日常が始まった。

 そして一年後、研修生は北海道各地の税務署へ配置される。給料が安いこともあってか、地元の税務署への配置換えが多かった。私は夕張税務署への勤務を命ぜられ、仕事は管理徴収係であった。

 管理徴収とは、基本的には国税の債権管理の仕事である。納税者の提出した申告書や調査担当から回された調査書類から、納税者個々の納付すべき税額を基本台帳へ記録し、納税された額や延滞税などを記帳して残高ゼロ、つまり滞納額がゼロになるまで管理するのである。

 納付期限が過ぎて滞納額が残っている納税者には督促状を発行し、それでも納付されれないときは、滞納処分票を作成して徴収専門の担当部署へ回付する、ここまでが「管理」と呼ばれる仕事である。ただ、夕張税務署は職員総数30名程度の小規模書であり、管理の担当者も滞納処分票をみずから持参して、徴収に歩くのも仕事であった。

 そして4年、私は始めての転勤を命ぜられた。稚内であった。最初はそこがどこだか分からなかった。北海道の最北そして日本の最北であることは、国鉄の時刻表を見て知った。夕張とそこから数時間の距離にある札幌しかしらない男にとって、稚内は余りにも遠かった。ただ遠いことも、北の最果てであることも特に気になることはなかった。旭川まで行き、旅館で一泊して北へと向かった。

 男の仕事は、今度は管理徴収から離れて、個人の納税者の正確な納税額を調査する部署であった。特に不安はなかったような気がするけれど、それは仕事の内容を必ずしもきちんと理解できていなかったからだったのかも知れない。

 税務署の基本は、滞納を回収するために納税者の財産を差し押さえしたり、公売したりすることも含まれるが、むしろ調査によって過少申告を発見することも重要な仕事だということが、少しずつ分かりだしてきた。私はまさに、その部署についたのである。

 見かけ上は二十歳を僅かに超えた青二才である。それでも小規模ながら担当する業種を与えられ、小さいながら町村も任されて、急に大人になった感覚の若者であった。

 稚内に二年、今度は苫小牧へ配置換えされた。仕事の内容は稚内と同様である。24歳になっていた。結婚して新居を構えた。このころから、仲間とマージャンや飲み会などに付き合いつつも、普通の税務職員であることに、少し疑問を感じ始めるようになってきた。

 学ぶというほどの意味ではないにしても、趣味として「数学」が好きだったことが影響しているような気がしている。それほどの投資ではないけれど、文庫本の数学関連書を集め、高校の数学の参考書なども蔵書の中に増えていった。統計の通信教育に手を出し、間もなくNHKの教育テレビで放映されるコンピューター講座を安い白黒テレビを買って一人で見るようになってきた。そしてそれに関連した通信教育に手を出すようになる。

 少し脱線気味になってきたが、「職場で生き残る〜2」へ続きます。


                        2020.5.19        佐々木利夫


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