「職場で生き残る〜1」からの続きです。

 当時のコンピュータ言語は、「コボル」、「フォートラン」が主流であり、前者は企業会計向け、後者が大学などの研究者向けであった。私は両方を学んだけれど、フォートランの方が好きだった。

 とは言っても当時のコンピューターは空調室に鎮座した、月額レンタル料金数百万と言う個人にはまったく手の出ない雲の上の存在であった。本で学び、紙に書いて覚える、これが私にできるコンピューター学習の唯一の方法であった。また、マシン語などの専門用語にもついていけず、まさに耳学問の世界であった。

 数年を経て、生まれた子供二人を伴って苫小牧から釧路に転勤になった。仕事にコンピュータなど無縁だったし、統計学の通信教育も単なる興味の範囲内だった。霧の町として有名な釧路で、真夏の転勤時期を寒さに震えて過ごすなど、当たり前の税務職員だった。

 釧路は北海道でも比較的大きな都市である。次回の転勤は早くとも4〜5年後である。来年の日本復帰が決まった沖縄に、一人で旅行に行くなど比較的のんびりした人生を楽しんでいた。

 ただ確定申告時期に統計を利用した土建業者に対する本人と従業員数の二変数を使った作業効率分析手法が納税相談で比較的効を奏して、それなりの事績をあげることができた。そのことで札幌国税局から、どんな手法なのか聴取にきたのが、少しは趣味の数学が仕事に生かせた始めての経験であった。

 毎年7月が人事異動(転勤)の時期である。だがまだ二年目の私には無関係である。突然、署長室へ来いとの連絡が入った。予期せぬ転勤の発令であった。しかも、これまでは個人納税者を担当する仕事を10年近くも続けていたのに、発令内容は札幌国税局内の資本金数億円という大法人を担当する部署であった。法人のことなど皆目経験のない素人の身に、この発令は混乱するばかりである。釧路勤務二年、始めての札幌勤務であった。

 当時はコンピューター会計が多くの企業へ普及し、紙の帳簿と伝票だけで経理方法を検討していたこれまでの税務調査手法が、次第に通じなくなる時代へと移行しつつあったのかも知れない。そんな時に、「どこかにコンピューターを知っている職員はいないか」、そんな要請がトップに起こり、そのアンテナにたまたま私が引っかかったのかもしれない。

 これを境に私の人生はまるで変わることになった。コンピュータ世界にのめりこんだという意味ではない。職場内にも、多様な選択肢の仕事の存在することが分かったのである。

 それに気付いたきっかけは、新しい職場で多数の先輩と一緒に、富士鉄室蘭へ調査に行った時のことである。調査先は、世界に冠たる日本の大企業の支店である。そこの職員を見ていて気付いたことがあった。経理の担当者だったのだが、彼は減価償却の精通者だった。つまり減価償却に関する法律から通達、そして質疑応答の解釈などまでを整然と理解していたのであった。

 富士鉄(後の新日鉄)だから、基本的に鉄鋼メーカーである。でもそんな中で、「減価償却」という製鉄とは無関係に見える分野でも、精通することによって会社にとって必須の人材になれるということであった。

 私にとってはコンピュータも一つの道だったかも知れないが、税務の職場にも精通することにより多様な世界の存在することが分かってきたのである。

 私は高卒で税務講習所(普通科と呼ばれる)を経て税務署へ入った。まだ挑戦したことはないが、職場内にはこの普通科の上に、全国から税務職員を選抜して東京で一年間研修する本科と呼ばれるシステムがあるではないか(別稿「大阪弁とわたし」参照)。更にその上には研究科と呼ばれる全国から十数人を集めた研修の機会だってあるではないか(別稿「私のくぐった赤門」参照)。

 鉄鋼メーカーで減価償却に精通した職員のように、それほどの能力もない私がコンピュータに興味があるというだけで仕事場が新しく開けたように、新しい道は今の職場にも内在していると気付いたのである。

 「転職による自分探し」ということを否定したいのではない。それも認めた上で、「今の職場」の中にも、新しい自分の居場所を見つけることができることに気付いたのである。もちろんそれなりの努力は必要となるだろう。ただ新しい自分の居場所は、足下にもあることに気付いたのである。

 特許や新商品開発、経理や会計や在庫管理、集金から貸付などなど、企業活動にだって多様な顔がある。人事管理、労務管理、トラブル解決、法令解釈や手続などなど、どの一つをとっても企業には必要とされる分野である。

 そうした中で、私は「税務における法令解釈」の道を選んだ。間もなく「国税不服審判所」という制度ができて、職場内に行政組織おける租税裁判所のようなシステムが作られることになった。私はその組織に長く勤務し、法令の解釈や手続きなどを学ぶことができた。

 そうした人生が、自らにとって最良だったかどうか、そんなことは分からない。芥川賞への道があったかもしれないし、ノーベル賞への道だってなかったとは言えないだろう。それでも私は自分の進んできたこれまでを、自分が納得して進んできたという意味で、しみじみと「これが良かった」、「これで良かった」と思い返している。

 人は多様な選択肢の中から一つを選ばなければならない。「選ばない」ことだって、一つの選択になる。選ばなかった数多の選択肢の行末は、本人にも他の誰にも決して分かることはない。時にそうした行末に、一抹のノスタルジアを感じることがないではないけれど、軽く頭を振ってそうした思いをノスタルジアの中だけに押し込めてしまうしかないだろう。

 「もし・・・だったら・・・」は、歴史の中だけでなく、私のささやかな思いの中にも潜んでいる。それを無駄とは言うまい。でもそれだけのことである。そして、それでいいのである。「私は今を選んだ」、そのことだけでいいのである。そして人生は選ぶに足るだけの多様さを、いつでも私達に示してくれているのである。


                        2020.5.24        佐々木利夫


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職場で生き残る〜2