国際的には「COVIDー19・コビッド19」と名づけられているので、このウィルスは2019年に発見登録されたのかもしれない(WHO=世界保健機関が命名)。だが実感としては世界中に猛威を振るったのは2020年1月からであり、メディアの呼称も含めて「新型コロナウィルス」のほうが馴染むような気がしている。

 このウィルスによる世界的な感染症の拡大は、私の入院した2020年1月末頃からメディアに登場したことについては、既にここへ発表した(別稿「新型コロナウィルス禍」参照)。入院先のベッド脇のテレビから、毎日のようにその世界的拡散が伝えられていた。中国武漢で起きた感染症の発症とその拡大であった。

 感染者数十人、死者数人の話題が、数日を待たずに感染者1万人を越えるまでに拡大し、死者もそれに伴って増加していった。武漢は中国政府によって都市閉鎖され、市内の交通はもとより他地域や世界各国への交通も完全に遮断された。だが時既に手遅れだった。地域ぐるみで閉鎖されるとの噂と同時に、それを聞いた住民の市内からの脱出が始まってしまっていたからである。

 感染は瞬く間に世界へと拡大し、各国は政治、外交、経済、友好、対立など様々な他国との利害の中で統一したウィルスへの対抗措置をとることができなかった。そうした対策不備の隙間を縫って、ウィルスは巧みに自らの勢力を拡大していった。

 WHOはこの感染拡大をパンデミック(感染爆発、世界的大流行)と呼び、世界的に統一した対策を検討し始めたが、既に手遅れだった。

 そして日本を含む各国の政府は、海外からの旅行者の移動制限をはじめ、自宅以外への外出禁止(自粛)などへと舵を切った(非常事態宣言、緊急事態宣言など、呼び方はさまざまである)。こうした感染拡大防止策は、単に飲食店や興行、観光などへの経済的影響に止まらず、国内の経済活動全体の縮小そして世界経済の沈滞へとその影響を拡大していくことになった。

 今や感染者数は世界で435万0026人、死者は29万7251人(因みに日本は16千079人、687人、共に5.15現在)を数えるまでになり、まさに感染爆発と呼ぶにふさわしい脅威になっている。

 そしてこのエッセイのタイトルに掲げた「正しく恐れよ」とする言葉が一人歩きするようになる。言ってることが、間違いだとは思わない。でもことさらに正面切ってこの言葉をぶつけられると、単なる気恥ずかしさ以前に、どこか「ちょっと待って」と言いたい気持ちにさせられる。

 それはこの言葉が、実質的に何にも伝えていないように思えるからである。「正しく恐れよ」、この言葉は、見かけ上はいかにも訓示的に聞こえる。微塵の疑いも持たれないような、君臨する正義の装いを身にまとっている。

 でも考えても欲しい。この「正しく恐れる」を否定したり、もしくは薄めるような、どんな表現が他にあるだろう。つまり、「正しく恐れる」は、「正しく恐れない」ことに対する反語なり批判として存在していると思うのだが、「正しく恐れない」とか「間違って恐れる」ことの意味が十分伝わってこないのである。

 だとしたら、「間違った恐れ」という表現そのものが、そもそも意味を持たないことになるのではないだろうか。恐れることに対して、そのことが「正」か「誤」のいずれかを指しているのだとしたら、「誤」を指摘すること自体が矛盾となるからである。

 そして更に、その正誤の情報は、どこから誰が発信するのかも不明である。私たちは、例えば伝染病を遺伝病だと誤解し、または遺伝病を伝染すると誤解した数多い歴史を持っている。人は不明なものに対してまずは「恐怖」で対処するしかない。私たちは全てを理解し納得してから、合理的に判断し行動するとは言えない。

 まずは事実や現象が目の前に提示され、次いで「分からない」が追いかけてくる。他人との出会いにしろ、道の動物との鉢合わせにしろ、はたまた未知の原因による怪我や病気や天変地異との遭遇にしろ、まずは事実や現象が突然に私達を襲う。その事実には、楽しいこと苦しいことなど、多岐にわたる結果が含まれるだろうが、多くの場合「苦しさ」と「そのことからの回避」という場面との遭遇になることが多いのではないだろうか。

 「判断することなしに、とにかく楽しい」という場面もあるだろうとは思うけれど、それが「楽しい」ことだけに止まるのか、それとも後に反作用として「苦しさ」が訪れるのかは経験を通じてでなければ判断できない。それに対し、苦痛はすぐに実感することができる。苦痛からの逃避は、理解ではなく反射になるからである。

 そして苦痛は、時に己の死とつながることがある。苦痛からの回避は不快からの回避であり、しかもその回避は反射である。反射は理屈ではない。結果的には正しい選択になるのかもしれないけれど、少なくとも反射は正しさを理解した結果として選択された行動ではない。つまり、反射には「正しく」の判断が抜けているのである。

 「正しく恐れる」は、まさに「恐れ」に対する反応の仕方を示している。「恐れる」対象は様々あるとは思うけれど、はっきりしていることがある。それは「回避」である。迫ってくる「恐れ」を「回避」しなければならないのである。しかもその回避は多くの場合、反射による行動になる。

 反射に「正しい」かどうかを判断する余地など、少しも含まれていないことは前述した。とするなら、「正しく恐れる」は、現実には不可能な要求を、我々に強いていることになるのではないだろうか。

 「正しく恐れる」は、ウイルス問題だけでなく、様々な場面で繰り返される言葉である。そしてそれは常に、いかにも正論であるような顔つきで私達の前に表れる。でも「恐れること」が「反射」なのだとしたら、この言葉は不可能を強いた命令になっているのではないだろうか。

 そしてそれ以前にこの言葉は、「正しいかどうかの理解ができないうちは、恐れてはいけない」ことを命令しているのである。そしてそれは、「回避の行動をとるな」、「逃げるな」を私達に強要する言葉になっているように思えてならない。

 果たしてそうした強要は、正しいことなのだろうか。「正しいことをきちんと追求し、正しく理解できるように努力せよ」と言うことは簡単である。「正しく恐れよ、正しいとの判断ができないときは恐れるな・・・」、でもそれって本当?・・・。


                        2020.5.15        佐々木利夫


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正しく恐れる