先週の「コロナ1000万人」の続編です。

コロナの感染拡大について考えていくうちに、「人の死」をどう捉えるかにまで拡大してしまった。このままだと、「生物の死」とは何かにまで行ってしまいそうだけれど、とりあえずはここまでくらいにしておこう。

 ただこのタイトルを掲げた先週は、7月7日現在の感染者数が1150万人だったのが、今日のネット検索では1291万人に増加し、死者も535千人から569千人になっている。感染拡大が落ち着いている国もあるけれど、トータルで見る限りコロナ感染は爆発的と言えるまでに世界中で拡大している。

 その原因は、「たかが」と呼んでいいのかどうか分からないけれど、顕微鏡ですら見ることのできないほど微小なウィルスの仕業である。「大きいことはいいこと」だし、「強いことは正義である」と私たちはこれまで、何の疑問もなく信じてきた。

 それを弱肉強食と呼んで、世界の支配は力にあると信じてきた。それが、目に見えない微細なウィルスの働きに手も足も出せないでいるのである。

 ウィルスが生物なのかどうか、そんなことすら私には理解できていない。そはさりながら、他者の細胞内でしか増殖できないとしても、自己複製の能力を持っているのだから「ウィルスは生きている」と認めてもいいのではないだろうか。そのウィルスに、世界が震撼しているのである。

 戦争でも多くの人が死ぬし、交通事故や病気や災害など、人の死は珍しくなく私達の隣にある。このコロナによる死者数569,128人(2020.7.13、アメリカ ジョンズ・ホプキンス大学発表)が、どこまでコロナ以外の人類の死と対比すべきか、必ずしも私に理解できているわけではない。

 コロナに限らずウィルスは、電子顕微鏡でしか観察できないほどにも微細である。私達の日常の常識で理解する限り、コロナ禍は目に見えない「生物?」による侵略である。

 とは言っても、それを侵略と呼ぶのはと゜こか疑念がある。人間が勝手に侵略と呼んでいるだけで、ウィルスとしては自己保存、自己複製、自己増殖に努めているだけなのかも知れないからである。

 人だって、植物にしろ動物にしろ、自らや家族の維持や拡大のために自ら以外の生物を命の糧として利用している。ウィルスの感染を侵略と呼ぶなら、牛や豚にとって人はまさに侵略者である。牛を米や小麦やとうもろこしに代えたところで、意味は同じである。

 そうした様々を単に生存競争という名の下に押し込めてしまっていいのかどうか、疑問はある。だが、私達の知る限り、命は他の命の上に成り立っているのは認めざるを得ない。命はそんな風に作られてきたのである。それを生物と呼んだのである。

 昨日(2020.7.15)のNHKテレビの「又吉直樹のヘウレーカ」という番組のタイトルは、「ダンゴムシに心はあるのか?」だった。録画してゆっくり見るつもりでまだ見ていないのだが、ダンゴムシに心があるのかの問いかけは、そのままウィルスにも結びつくような気がする。

 「心とは何か」はとても難しいテーマだとは思うけれど、人間の心だけが心だと定義することはできないような気がしている。心もまた様々であり、人はイヌネコや魚や鳥や昆虫などとは交流できるのか、更には宇宙人とはどこまで交流可能なのかなど、交流そのものの意味すら疑問になる。

 極端に言うなら、人間は人間と交流できるのか、できているのか問われたなら、答は見つかっていないのではないだろうか。アリの巣に熱湯かける人がいる。ゴキブリほいほいという殺虫剤を台所の隅に置く人がいる。農薬や除草剤は、まさに農産品を糧としている側の命にしてみれば、脅威そのものである。その除草剤を、人はベトナム戦争でゲリラの隠れ場所を抹消するための手段として、大量に散布した。

 そうした様々を私たちはこともなげに繰り返している。そうした日常に命への問いかけを感じる人もいるだろうし、命の問題など片鱗も感じない人だっているだろう。「虫送り」と「虫殺し」とはどこが違うのか分からないけれど、少なくとも現在の私たちは、コロナウイルスを絶滅させる薬品の開発に躍起である。

 そうした殺戮を目的とした薬品に、ウィルスが生き残る術を見つけるべく自らの体を変化させることは、果たしてどこまで認められるのだろうか。そうした変化を、善とか悪という基準で評価してしまっていいのだろうか。

 善悪は人間にとっての善悪という基準でのみ判定すべきだ、という考え方もあるだろう。だがそうした考えを押し進めていくなら、その人間には、どこまで「あらゆる人間」を網羅するのかとの疑念が残る。貧富や思想や道徳・宗教などによる差別や区別は、果たしてどこまで無視していいのだろうか。

 「最大多数の最大幸福」という言葉がある。それはそのまま、例外の存在を前提としている。つまりは「すべての人の幸福」は含まれていないということである。

 確かに私たちは、「共存」という観念を見つけ出した。悪をくじくのではなく、悪にもまたその存在を認めて共に生きていこうとする考えである。でもその共存の思いは、勝者もしくは力ある者の身勝手な理屈から構成された、傲慢と言う要素から作られているのではないだろうか。

 コロナウイルスとの共存が言われている。でもそれは、「コロナウィルスは悪であり、かつ今のところ絶滅させることはできない」という発想が前提になっている。それは決して「ウィルスと共に生きよう」ではなく、絶滅できないこと、絶滅が不可能であることの裏返しの発想でしかない。「隙あらば、ウイルス絶滅宣言を発したい」との下心が見え見えである。

 人は心の奥底ではコロナウィルスの絶滅を望んでいるのである。そして現状では絶滅できそうにないことから、あえて「共存」という表現を使って内心を糊塗しようとしているだけに過ぎないのではないだろうか。

 そんな考えを、果たしてどこまで「共存」と言えるのだろうか。こんな思いを抱きながら、白人が黒人との「共存」を呼びかけたり、日本人がアイヌ人に語りかけたりするとき、それは本当の意味での「共存意識」なのだろうか。そんな意識下からの呼びかけを、黒人やアイヌ人がどこまで信頼してくれるだろうか。

 ウィルスの絶滅を手ぐすね引いて待ち構えているのが人類なのである。コロナウィルスに命や意志を認めるのは噴飯ものかもしれないけれど、そうした人類と果たしてコロナウィルスは「共存」できるのだろうか。そしてそれを「共存」と呼んでいいのだろうか。


                        2020.7.16        佐々木利夫


   7月19日朝のニュースは世界のコロナの感染者数を、1,412万7864人と報じていた。まさに爆発である。医療崩壊間近とも言われている。マスクをして、外出しないで、他人と話すことなき閉鎖的な日常が延々と続いている。こんな生活がいつまで続くのだろうか。


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コロナ1000万人(2)