なんとかなる、

  なんとかしてくれる
  
 これに似たタイトルは既に発表している(「どこか変だなと感じること・平成17年・No7・『誰かがなんとかしてくれる』)。だが、そうした感じは私のへそ曲がり度が徐々に佳境に入ってきているせいか、最近とみに増えてきているような感じがしてならない。

 最近マスコミを賑わしている、建築士が作成した構造計算書の耐震強度が偽造され、それを基に作られた東京近郊の21棟ものホテルやマンションが震度5強程度の地震や場合によっては自重でも倒壊する可能性があるとして問題になっているケースもそうである。

 若い頃2年ほど東京に住んでいて経験したことだが、東京はけっこう地震が多い。それに最近は東海地震、東南海地震などの可能性も指摘されてきており、都市直下地震さへ予想されているから、こんなマンションを購入した人にとってこの事件はとんでもない話だろう。

 地震なんてのは可能性の問題だと言ってしまえばそれまでのことだけれど、今にも来るかも知れないのだから可能性だなんてのんびりした話ではない。単に欠陥住宅という問題だけではない、ここまでいたっては人命への直接的な危険であり、住むこと自体への不安であり、それも差し迫った今の問題である。

 建物の完成までには建築主だけでなく設計士や建築士、工事業者のみならず下請け孫受け、販売業者などまで多岐にわたる関係者が存在するから、居住者としては売買契約の解除、移転先の発見、移転に伴う費用の負担などなどを、誰にどんなふうにその責任の補償や損害賠償を求めたらいいのか、それよりも差し迫った今をどうしたらいいのか、その不安や混乱は手に取るように分かる。

 だがその責任者の中に国が入っているのはなぜか割り切れないものを感じる。国に責任を求めようとする根拠は、今回の事件の基礎となった構造計算書をチェックする権能が、最近の規制緩和や民営化の流れのなかで国から民間へと移りつつあるからである。

 つまり、「民間会社が建築確認をするシステムを作った国が最も責任が重い。契約解除に伴う費用は国が補償すべきだ」(17.11.21読売新聞朝刊、川崎市のマンション管理組合理事長談)と言うのである。加えて民放テレビに登場するにわか識者もこぞって「そうだ、そうだ」の大合唱である。

 どこか変である。確認事務を民間へ移したことやそのチェックシステムそのものに基本的な欠陥があり、その欠陥を基に国の責任を追及するなら分かる。だが、今回の事件は少なくとも報道による限りシステムはきちんとしており、単にそのシステムを建築士が悪用したことによるものである。

 施工者や建築主が不備を承知で特定の建築士を指名したとか、確認事務がノーチェックのままで機能していなかったなどの疑問も指摘されているが、少なくともチェックシステムに欠陥があったとの報道はない。国に責任を問う背景は単に作成された建築確認のチェック機能を国から民間に移したことそのものである。

 このように、いま言われている唯一の指摘は、数年前までは国が責任を持って行っていた確認事務を民間でも実施できるように建築基準法を改正したことによるものである。
 こうした法律改正は、阪神淡路大地震での倒壊家屋多発の教訓から、確認事務を国に占権的に認めていたのでは必ずしも適格な建築基準が守られないという声があり、民間が行ってもより迅速で国の検査に劣ることのない結果が得られるという判断で設けられたものだと言われている。そしてそうした判断なり確認の手続きなりに欠陥があったなどとの報道は一切指摘されていないのである。

 なんでもかんでも国に「なんとかせい」と言うのは、逆に国に対する国民の安心感なり大樹への信頼感を表しているのかも知れないし、それはそれで分からないではないけれど、どこか変だ。
 自ら努力することを放棄して、大樹に寄りかかろうとするのはどこか責任逃れではないのか。イラクの人質事件でも危険だから近づくなという外務省の警告を無視して囚われの身となった人たちの家族が「こうなったのは国が自衛隊をイラクに派遣したことによるものであり、国は人質解放のために即刻自衛隊を引き上げさせるべきだ」と主張したりすることにも同様の考えを見ることができる。

 国はあらゆることに関与しているのだから、そんなことを言っちまったら、民間委託以前に交通事故は不適格者に国が運転免許を与えたことによるものだし、窃盗や殺人はそうした行為を防止できなかった教育や取締りの問題だし、北方領土が戻らないのも、いじめがなくならないのも、大雨が降ったり雷が落ちて被害が出るのだってみんな国の責任になりかねない。

 欠陥マンションの問題に戻ろう。建築主、設計者、確認業者、施工者などなど、誰が責任を負うべきかは法的には色々あるだろう。そして仮にその加害者だけに責任を負わすとした場合、その者に支払い能力が不足していた時は、結局被害者は救済されないケースが発生する。なぜなら、この問題は結局「金で解決する」以外にないからである。現に破産申し立てをするという業者も出ているのだから、救済されないままの被害者という恐れのなくもない。

 特にこうしたマンション購入のような場合、人によっては一生に一度の買い物であり、しかもローンの返済はこれから数十年も続くのという場合も多い。極端な場合、建物は崩壊して借金だけが残ると言う事態さへ起こりかねないだろう。

 だからと言って、その責めが国なり行政にあると言うのはどこか変である。もちろん、国とか地方という組織の役割の中には「皆で助け合おう」という機能が含まれていることに異論はない。犯罪被害者基本法であるとか生活保護法などはその典型とも言えるだろう。だからそうした被害者の救済に国なり自治体が積極的に関わっていくことに異論はない。

 しかし、国や地方が成り立っているのは皆のお金(税金)なのであって、特別に打ち出の小槌を持っているわけではない。だから国や地方の責任を外れてまでそこへ補償すべきだと言う論理を持ち出すのはどこか変であって、むいろ互助としての機能の強化を求めるべきであり、決して「責任の追求」ということではないはずである。

 もちろん、国なりに責任がある場合には当然に損害を賠償すべきである。「国家賠償法」はそのための法律であって、国にも不法行為に伴う責任能力のあることは当然である。
 だから責任のない場合とある場合とでは違うのではないかと思うのである。責任の有無と救われないであろう被害者に対する可哀想論とは別次元の問題として国も国民も考えるべきだと思うのである。

 仮に国に責任がないにもかかわらず損害賠償を認めるべきだという考えが許されるなら、その賠償金は税金を支払っている国民が責任がないにもかかわらずそれを負担するということになる。こうした理屈認めると言うことは、負担すべきでないにもかかわらず負担すると言うねじれた論理を認めさせることになってしまうのである。

 私はこの欠陥マンションの問題に対して、国は傍観者として無責任の高みで見物しているべきだと言いたいのではない。この事件は既に個人個人で解決する領域を超えて社会的に処理しなければならない問題になっている。国なり自治体としてはそうした住民に対して支援すべく動く必要があるし、それ以上にこうした確認書の偽造がどうして見抜けなかったのかについて今後のシステムのあり方も含めての検証が必要になってくるであろう。

 ただ、なんでもかんでも自助努力を持ち出すのはこうした問題にはふさわしくないのかも知れないけれど、川崎のマンション理事長などの話を聞いていると、だんだん人が「自分でなんとかする」という気持ちから離れていって、始めから「自ら考え努力すること」に一度も思いを馳せることなしに「国がなんとかすべきだ」と根拠もなしに思い込む方向へと進んでいっているような気がしてならないのである。

 そしてそうした思い込みに対して、周囲の人たちも本来の責任を追及するという基本を促すのではなく、同情論であるとか精神的支援だのカウンセリングだのと理屈をつけて、努力しない人たちの「なんとかなるだろう」という気持ちを助長させていっているような気がしてならないのである。

 そんなことをしていたら、そのうち人はきっと、「なんとかなるだろう」を超えて、「(誰かが)なんとかしてくれる」、「(誰かが)なんとかすべきだ」と自らの力で解決する努力を放棄して、なんでかんでも他人に責任を押し付けるという思い込みに走ってしまうようになる。世の中には「自分で解決する以外にはなんともならないこと」が山のようにあるにもかかわらずである・・・・・。

 そして今日(11.28)のテレビ報道でのマンション居住者の発言である。「行政がきちんと道筋をつけてくれないと、その間に大変なことが起きたらどうするんですか」。

 「私は被害者。だから救済を求めるだけで何もしなくていい。行政が何とかすべきである。」そうした気持ちの分からないではない。だがどこかで思い違いの気持ちが見え隠れしているような気がしてならないのである。もしかしたらそう思わせるような行政であるとか学校や社会など、マスコミも含めたこれまでの対応の仕方と言うか躾や反応にも問題があるのかも知れないけれど・・・・。

 さてさて、あんまりまとも過ぎるような言い方をしているとどこか嘘くさく、なんとなく尻がこそばゆくなってくる。そろそろここでいつもの佐々木節を追記して少し茶化しておかないと落ち着かなくなる。

 第一こんな風に考えるのだって、きっと私が長く行政に身をひたしていたからではないのだろうかとの疑問がないでもない。
 そして、自助努力だなんて言葉そのものは格好がいいけれど、考えてみればそれは他人に対して押し付けているだけで、その対象に自分は含まれていないのではないかとさえ思ってしまう。仮に私がそのマンションに住んでいた当事者だったらどうしたのだろうかと、そんな風に考え込んでしまうと思いは一層複雑になるのであって、あれこれ思い悩みの果てにこのエッセイはこれまでの作品の中でもっとも混乱しているのではないかと自虐的にさえ思えてくるのである。


                     2005.11.23    佐々木利夫



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