「餌をあげる」ふたたび・・・
  
 「あげる」の使い方が変だということについては以前にも書いた(「餌をあげる」)。最近見た家庭の大工仕事(いわゆるDIY)のテレビ番組で、障子紙を張り替える場面があった。紙をはがした跡に残る糊について「少し濡らして割り箸の先でこすってあげるといいですね」に、あげるはここまで浸透してしまっているのかと逆に感心してしまった。

 もう一つ、これもテレビでの話である。きんかん(みかんの一種)の栽培農家を囲んで著名な歌手とアナウンサーの対談である。きんかんの育成や品質管理、更には市場の拡大などの苦労話が続く中で、その歌手がさかんに「きんかんの木に水をあげる」を繰り返していたのが気になって仕方がなかった。

 もっともその農家のおじさんは始めから「水を遣る」だったし、アナウンサーもこれに呼応していたので、そのことに気づいたのか「水をあげる」歌手の表現もそのうちに「水を遣る」に変化していったから、とりあえずホッとはした。

 ところで最近の教育論争の中で、文部科学省は英語教育を小学校4年生ころから導入しようとしているとの報道がある。
 「あげる」にだけ日本語の乱れを代表させるのは酷だと思うし、言葉は時代とともに変化していくのだから、そうした変化と乱れの違いを十分に理解しないままこうした発言するのはおこがましいとは思う。

 だが、なんでもかんでも「チョー」をつけたり、「AとかB」という複数の選択ではなく、一つのことにまでやたら「○○とか」をつける「とか言葉」、「・・わたし的には」のようにやたら「的」をつけてはっきりしていることにまで曖昧さの味付けをしてみたり、「私って・・・じゃないですか」と無理やり相手の同意を強要したがるような表現、それに若い女の子を中心とした鼻にかかったような言い回しなどなどを聞くにつけ、英語を学んでの国際化も大切だろうけれど、日本語をしっかり教えることのほうがもっともっと必要なのではないかとさえ思ってしまう。

 このことは単なる思いつきではない。これはラジオでの話だが、つい先日日本に住む外国人女性が生活習慣の違いから来る様々な苦労を語っていた番組があり、その中で猫を飼っている話がでた。
 私はその内にきっと「ペットに餌をあげる」という場面が間違いなく来るものと思った。そして思ったとおり餌の話になった。金魚にだって犬にだって、「餌をあげる」という表現は既に慣用語として日本人の風習の中に溶け込んでしまっている。彼女だってそう言うに決まっている。

 ところが違ったのである。この外国人の女性はきちんと「猫に餌を与える」と言ったのである。発音も表現も明らかに外国人と分かるたどたどしさの中で、きちんと「与える」と言う言葉を使ったのである。

 それを聞いて私はなんだかとても情けなくなったのである。その女性に対してではない。「餌をあげる」という表現をちっとも変だとは感じていない日本人たちの群れがいたるところに存在していることにがっかりしたのである。そしてやりきれないほどに口惜しくなったのである。

 これでは日本人は日本語を知らないと言われても仕方がないのではないのか、言葉遣いに勝った負けたはそぐわないだろうけれど、明らかに日本人は日本語という分野においてすら外国人に負けているのではないか、そんな風に思ったのである(別稿「たどたどしい日本語」参照)。

 最近売れている本に「国家の品格」(藤原正彦)があるそうだ。何をもって品格の定義としているかはまだ読んでいないので分からないが、宣伝文の中に「論理よりも情緒、英語より国語、民主主義よりの武士道精神」とあった。読まないでおいて同調するのもなんだとは思うけれど、これまでいくつか彼の著作やテレビ出演などに触れる機会があり納得する場面も多かったことから、この宣伝文の「英語よりも日本語」の一言に密かに「さもありなん」と思ったのである。


                     2006.03.30    佐々木利夫



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