書棚をごそごそかき回していたら、こんな本が見つかった。「定理公式証明辞典」(笹部貞市郎編 聖文社 昭和45年5月発行)と題するケース入り5センチもの厚さのいかめしい本である。裏表紙に「昭和46年。31歳の誕生日記念に購入、釧路」とメモしてある。

 メモされている釧路は税務職員に採用されて何度目かの転勤での勤務地であり、年齢からして受験や期末テストや夏休みの宿題などのための参考書でないことは明らかである。
 買ったこと自体を覚えていないのだが、恐らくは、「この本の中にこそ真実がある」みたいな、一種の数学に対する畏敬にも似た感情、それにケース入りという重々しさなどが相まって自分から自分への誕生祝と言う形をとったものではないかと思う。

 それにしても30歳を超えてから、しかもこんな大げさな書物を当時としては大金である3,500円も出して自分に贈ったと言うことに、我が身のことながらなんだか少し羨ましいような気持ちにさせられる。

 それから30数年を経たにもかかわらず、ケースの黄ばみはともかく中身はほとんど汚れていない。だから恐らく買った時の高揚した気分はそんなに長くは続かなかった、もしくは書かれた内容について行けなかったであろうことがそれで分かる。

 もちろんもう一度この本に改めて挑戦しようという気持ちなど、この歳になった今ではどこを探しても見当たらない。それでもこの本には、恐らくは31歳と言う中年に入りかかった平凡な男の、それでいてどこか現実離れした夢の欠片みたいなものを感じることができる。

 本には2〜3枚の小さな紙片がはさんである。その一つは「無理数・不尽根数」と表題のある部分で、いくつかの数式が並び、「・・・従って、√aは分数となることはない。よってaが平方数でない限り、√aは無理数である」にアンダーラインが引かれている。

 この本には整数論から虚数、集合、オイラーの等式(eiπ + 1 = 0、別稿「個性のない方程式」参照)、そして4色問題(四色定理とも呼ばれ、白地図を塗り分けるには最低何色必要かという問題であり、むしろ4色で足りることを証明せよという問題でもあった)まで多くの項目の証明方法が書かれている。
 そして4色問題については、「それが難問なる所以は、実にその十分性の証明が困難なところにある」との記述がある。だから、この本が作成された当時はまだ解法が見つけられていなかったことがこれで分かる(ネットで検索した結果、この問題は、1978年にアメリカ・イリノイ大学の研究者によって証明されたことが分かった。私がこの本を買ってから7年後と言うことになる)。

 わたしとてオイラーの等式や4色問題にそれなり興味はあったものの、その解法に挑戦しようと思うほど無謀ではなかった。だが、挟まれた紙片の位置からして無理数(繰り返しのない無限に続く小数)についてはどこか惹かれるものがあったのだろう。

 無限という概念は、少なくとも私にとっては宇宙の辺境を想像させるものであった。つまりは、宇宙に果てはあるのかという単純な疑問につながるものである。
 だから無限とは夜空の月を超え、夕焼けの太陽を超え、星々の更に奥なる銀河を超えた果てなき遠くを示す言葉でもあった。

 ところが無理数が身近に存在することを知ったことで、宇宙の果てにまで思いを馳せる抽象的な観念がとたんに我が身に隣接する現実のものになってきたのである。
 例えば目の前の紙に勝手に円を書き、正方形を書く。この円の直径を「1」と決めたとたんにその円の周りの長さは突如として円周率たるπ(パイ 3.14159265・・・)という無理数となり、正方形の一辺の長さを「1」と決めたとたんにその対角線の長さは√2(1.41421356・・・)という同じく無理数になってしまうのである。

 しかもその無理数としての長さは目の前に示されているとおり、間違いなく閉じた図形の中に厳然と存在しているのである。宇宙の果てにまで思いを巡らさなくとも、目の前の閉じた図形である円周や対角線の中に無限は事実として存在しているのである。対角線の長さを記そうとしたところで、その値はこの正方形の升のなかに決して治まることはないのである。

 無限とは感覚的には「限界がない」というだけの意味かも知れないけれど、特に私なんかにはどうしても有限的なものしか理解できないという感覚的な限界がある。
 だからこそ、無限には無限大も無限小も含まれているにもかかわらず、現実的感覚的な限界を超えているがゆえに、哲学や論理学などへも思いを馳せることのできる力を持っていると言えるのかも知れない。

 だから、「平行線は交わらない」という常識も、無限遠で交差するとする概念の前には、どことなく戸惑ってしまう。そして微積分におけるdxなどの無限小記号で記された様々な方程式も、分かることと分からないことが混在してしまうのである。もちろんその「分かる」の意味にしろ、誰だったろうか、名言「微(ひそ)かに分かる、分かった積もりになる」程度のものではあるのだが・・・。

 もっとも同じ無限の名がついても、無限連鎖講とはねずみ講の異称だし、無限軌道とは戦車やブルドーザーのキャタピラーの意味もあるから、日常的にはそんなに哲学的でない使い方も多い。

 だが宇宙の始まりをビッグバンだと知らされてみると、時間にも始まりがあるのか、つまりビッグバンの前に時間はあったのかなどなど、理性と感性とはいつもどこかで交錯しすれ違う。

 素数(1と自身しか約数を持たない数)が無限に存在することは大昔に証明されているが、それでも現在でも発見できうる限りの最大の素数を求めて計算が続けられていると聞いたことがあるし、円周率はそれが無理数と知りつつも2002年暮れに発表された1兆2千400億桁(拙稿「円周率への旅」参照)に満足することなく更なる競争が続けられていることもまた事実である。

 無限に挑むのは観念的には無謀な試みと言ってもいいのだろうが、そうした中にコンピュータの性能であるとか新しいプログラムや数論の開発などと言った現実問題もさることながら、見果てぬ夢に漂うのも悪くないなと、閑居の中の男は時に白昼夢の散歩を楽しんでいる。




                          2006.11.13    佐々木利夫


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