たった二言の詩がある。

 風?
 かあさん?

  (いわさき ちひろ 「戦火のなかの子どもたち」より)

 何かの物音に思わず身を乗り出して物陰から覗く少女の姿を髣髴とさせるこの言葉は、なぜかとっても切ない。たった二つの言葉の中に不安と期待のはざまに揺れる少女の切ない思いが真っ直ぐに伝わってくる。その思いとはもしかすると戦争そのものの残酷さにつながるものなのかも知れない。

 「戦う」ことの語源は「叩き合う」ことだと聞いたことがある。「力に頼る者は力に亡ぶ」とは戦いをテーマとするたくさんの物語の中の定番文句だと言ってもいいほどだけれど、力がより弱い力を支配する現実はいつの時代も変ることはない。時に正義を実現するのにだって力が必要だったこともあるし、「民衆の力」、「自由の力」、「結集した力」・・・・、人はどんな場合も力を頼りにし、そうした力を背景に歴史を作ってきた。

 なんならもっと並べようか。「法律の力」、「お金の力」、「意思の力」・・・、力はどんな場合もそれにより相手をねじ伏せることができると信じられてきた。

 力による支配が相手を屈服させることなんぞ子供だって知っている。「赤ちゃんは大きくなって他人を傷つけようとか、盗みをしようとか、自殺をしようなんて思って生まれたのではない。」・・・・つい最近の成人の日の特集番組の中で著名な識者が話していた言葉である。

 それはそうだろう。赤ちゃんは白紙だ、無垢だというならそれも認めよう。でも、それはそれだけの話である。「泥棒になろうと思って生まれてきた赤ちゃんはいない」そのことを否定しようとは思はない。だが、その無垢と名づけた単語を純粋とか純真などといった「泥棒すること」と対極にある正義や真実や善意にまで持ち上げるのは間違いである。

 殺そうと思って生まれてきたのではないのと同じように、赤ちゃんは他人(ひと)に優しくしようとか、人を傷つけることなく生きようなどと思って生まれてきたのではなく、ましてや世界平和のために天上天下唯我独尊を唱えながら生まれてきたのでもないはずである。

 だから赤ちゃんの白紙だとする心を正義の極みに置き、そこから少しずつエゴなり悪なりを覚えこんでその極みから外れていく現実を、親であり社会の刷り込みによる責任であるとする発想にはどうしてもついていけないのである。

 子供が嘘をつくことについては既に述べた(「童話・寓話の・・・ん?」、『金の斧・銀の斧』)。力だって同じである。幼稚園や保育所、いやいや自分の幼児期や身近にいる子供の姿を思い起こすだけで十分である。自分が欲しいおもちゃはそれを欲しがる他の子供には決して渡そうとしないし、他の子が持っているなら力ずくでも奪おうとするだろう。
 そうした行動は決して親や社会から教えられた結果によるものではない。しかもそれはその他者に対する意地悪でもいじめでも報復でもないはずである。むしろ目の前にある自分の利益を守るという本能とも言うべき単純な意志、自我の芽生えだとすら言っていい。

 正月にNHKの自然をテーマにしたドキュメント番組を見た。卵から孵った犀鳥の雛三匹が親鳥の運んでくる餌を奪い合うのである。強い雛が生き残り、争奪戦に加われない弱い雛がやがて干からびて死ぬ姿を映像はそのままに伝えていた。そこには譲り合い、互助、協調、遠慮、思いやり、なんと表現してもいい仲間や兄弟を助けようとする同情じみた姿勢などカケラもない。餌の争奪戦は己が満腹になるまで続くのである。

 それを暴力とか残酷などと表現してはいけない。ましてや教育であるとか知識なんぞという後発的な環境による変化などという言葉で表してもいけないのだと思う。

 人も同じである。人は生まれながらにして力が勝利を得ることを教えられなくとも知っている。それは力が正義であるとか善であるとか以前の問題である。得てして「力は悪である」と教え込もうとする動きがある。それは間違いである。なぜなら正義もまた力で実現することが可能だからである。

 それなら力で実現した正義は正義ではないと定義することも可能であるかも知れない。そうだとするなら、世の中正義なんぞどこにもないことになる。法の力、選挙の力、力にも種類があり正しい力と悪い力とがあると言うのか。ならばその力の定義は誰が行うのか。その決定もまた力あるものに委ねられるているのではないのか。

 かくて人は善悪を問わずに力を信じるようになる。叩くことで叩かれる者を叩く者の意思に従わせることができることを人は身をもって知るのである。叩くことはやがて戦いに発展する。

 植物を育てることが癒しにつながるのだという。そのためのグッズの一つに試験管の中で勝手に育つ蘭の一種が最近テレビで紹介されていた。なんにもしなくて良いのだと言う。水さえもやらずに放置しておくだけでその蘭は勝手に成長し、その緑が人を癒すのだという。
 そうした仕掛けの実態を私は詳しくは知らないけれど、密閉された試験管内には成長に必要な水や空気があらかじめ封入してあり、室内の明かりを頼りにその植物は育っていくのだろう。

 その試験管植物を紹介している番組を見ながら、ふと若いときに勤務した帯広税務署時代を思い出していた。帯広は全国でも主要な酪農・畑作を中心とした農業地帯である。農業といえども税から離れることはできないから、その年の作況がどうなるのかは我々の仕事の上でも大きな関心事である。

 そのため、多くの農家の畑を回ってその年の作柄状況や販売価格の予想、投下する経費などの情報を集めることになるのであるが、そんな時ある農家がこんなことを教えてくれた。

 「作物を育てるのはね、肥料じゃない、人間の足音なんだ」。

 この言葉はそれまで公務員として背広とネクタイ、そして朝から夕方で勤務が終わり日曜日や祝日や正月が休みであることが当然のこととして暮らしてきた私に強烈なパンチを与えた。
 相手はなにげない日常会話のなかで「まじめに手入れしないと作物はきちんと育ってくれない」くらいの意味で言ったのであろうが、足音が作物を育てるという発想は、種、土、肥料、除草、収穫、販売などと言ったいわゆる農業知識、と言うよりは職業柄か費用対収益という収穫にいたる一連の作業の結果としてしか農業を見ていなかった私にとって、なんだかとてつもなく新鮮な一言だった。そしてそのことは農家が作物と言う命と正面から向き合っているという事実を知らせてくれたのであった。

 命は地球よりも重いのかも知れない。だがそんな重さを少なくとも私はこの手のひらで受け止めることなどできそうにない。声高に命の大切さを叫ぶことも大切かも知れないけれど、あんまり正論ばかりに囲まれてしまうと、自身がそんなには命を大切してこなかったこと、今だって身の内に卑劣さや卑怯さや弱い者いじめや権力への迎合や怠惰などがあふれるほどに詰まっていることに気づいてしまう。

 声高な正論にどこか嘘っぽさを感じてしまうのは、私自身の持つ弱さの裏返しなのかも知れない。自分の中にそうした重さや大きさを正面から受け止めるだけの容量がない、もしくは受け止めることが怖いから斜に構えて体をかわそうとしているのかも知れない。

 それでもこの文の冒頭に掲げたいわさきちひろの詩には、たった二言だけれど、どこかその女の子が我が身の全部を母の存在そのものに委ねているような、そんなひたすらな安心感を味わうことができる。
 もっと軽い命、どこにでもある小さい命、心のどこかでほんの少し寄りかかれる命、そうした想いは、エゴから少し引いて相手を受け止めること、小さくてもその命を自分の命として共感しようと思うことで、我々の心に少しずつ育っていくのではないのだろうか。

 切羽詰っていない者の語る命の話題はいつも傲慢だと思う。それは命って奴がどうしても自分から離れた視点からしか眺められないものだからなのかも知れない。イラクで人が死に、大雪で人が死ぬ。新聞には毎日死を知らせるおくやみ記事が載り、電話やファックスで仲間や縁者の訃報が入ってくる。戦争でも事故でも病気でも、ひとは確実に死んでいく。その死は事実としてはすぐ隣にあるのかも知れないけれど、自分の死とは隔絶された壁に遮られている。壁はもっともっと薄いのだと頭では知りつつ、それでもその彼我の違いは途方もなくしかも無意識に厚いものとして観念している。

 死はゆくりなく訪れるものなのかも知れないけれど、そんなふうにあっさりと割り切ってしまうには余りにも殺伐過ぎるこの頃なものだから、時には共感できる命について見つめる自分の姿を、少し離れた視点から眺めてみたいものだと・・・・・・、小さな事務所の住人はそんなことを考えています。


                        2006.1.12    佐々木利夫


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