自分で自分に意地を張るってことも時にはあるんだと妙に納得してしまった。思ったよりも短期間でゲーテのファウスト(高橋義孝訳 新潮社)をどうやら読破することができたことである。この作品に挑戦しようと思った経緯については10月にこの場で発表した(別稿『多分?、恐らく?二度目の挫折』参照)。古書店からこの本を入手してから、飲み会で遅くなろうとも、他に読みたい本が見つかろうとも、少なくとも毎日一行以上は絶対に目を通すぞと自分を叱咤激励してきた結果が約1ヵ月半を要して12月2日にやっと答を見た。

 そはさりながらこの著作が理解できたかと問われるならどうにも自信がない。読み終わってみて、先のエッセイでも危惧したように「自然と人間存在の深い意味を象徴によって語り伝えようと世界文学史上最高の叡智の詩劇」(訳者あとがき)とする作者の意図を理解する能力など、私にはまるで不足していることがはっきりと分かったことは否定のしようがない。つまりこの作品のテーマとしての意図が必ずしも理解できなかったということでもある。

 作品の幕々に展開するストーリーそのものの理解はともかく、この中からゲーテが描こうとした人生への思いなどをこの身に捉えることなどできなかっのである。そして瑣末なことなのかも知れないが、逆にファウストがメフィストフェレス(メフィスト)と交わした契約の意味、そしてその契約に対する作者の意図などがふと見えなくなってしまったのである。

 ファウストはメフィストに対して己の魂の引渡しを契約した。「わたしの術でたんと面白い目を見せて差し上げます。まだ人間が見たこともないような面白いものをね。」(1675行)と悪魔は提案し、人生にも学問にも倦んだファウストは「己が刹那に向かって『とまれ、お前は本当に美しい』といったら、己はお前に存分に料理されていい」(1699行)と応え、血の一滴を使って契約書に署名したのである(1737行)。

 しかもそれは単にフアゥストとメフィストだけに交わされた契約ではなかった。主(つまり神)自らが「あれ(ファウストのこと)がこの地上に生きている間はお前が何をしようと差し支えない。人間は精を出している限りは迷うものなのだ」(315行)とメフィストに話しかけ、「死骸には、私、用はないんで。」(321行)と賭けを持ちかけるメフィストの提案に対して、「よし、お前に任せておく。あの男の霊魂をその本源から引き離し、お前にそれがつかまるものなら、お前の道に引き入れてみるがいい」(323行)としてファウストの霊魂の引渡しを認しめたのである。
 つまりファウストとメフィストとの魂の引渡しの関する契約は、神の承認のもとに成立したと言ってもいいのである。

 そしてその時が来た。

 「『日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、自由と生活とを享(う)くるに値する』。そしてこの土地ではそんな風に、危険に取囲まれて、子供も大人も老人も、まめやかな歳月を送り迎えるのだ。己はそういう人の群れを見たい、己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。そういう瞬間に向って、己は呼びかけたい、『とまれ、お前はいかにも美しい』と。・・・」(11574行)。

 ファウストはこんな風に契約書に書かれた文言を叫んでしまった。契約書に書かれた条件の成就である。これでファウストの魂はメフィストのものである。そしてその場でファウストは倒れる。メフィストは勝利した。メフィストは「針は落ちた。片がついた」(11593行)と快哉を叫ぶ。彼は神との賭けにも勝利したのである。
 だが物語りはここで終わらなかった。突然天使の群れがあらわれて「ファウストの不死の霊を持って空高く登っていく」(11823行のト書き)のである。

 私がどうにも納得がいかなかったのはこの部分である。悪魔の概念は必ずしも昼の帝王に対する闇の魔王のような対立するものとして存在するものでないことは理解しているつもりである。悪魔もまた神の従者としての地位にあることが分からないではない。
 どうして神と悪魔に対等な立場で対立する二大勢力としての地位を与えなかったか、二元論の考え方の方に理解のしやすさを覚える私には必ずしも納得できないのだが、唯一絶対無比の力としての神を一つだけ置き、同等の力を持つ悪魔の存在を人は望まなかったということなのだろうか。

 それにしても何の説明もなしにファウストの魂を天上へと取り上げるのは理不尽である。もちろん死者の魂が悪魔の手に委ねられるか、はたまた神の手に救われるかの二者択一を迫られたとき、死者も残された者も共に神の手を選択するであろうことを理解できないではない。

 それでもこの物語を成立させるためには、どうして神が断りもなしに勝手にファウストの魂を悪魔の手から掠め取っていくのかの説明が必要だと思うのである。神は絶対な専制君主なのだから何をしようと問答無用であり、契約の成否とても神の任意な思いに委ねられているのだとするならそれは余りにも身勝手な解釈ではないだろうか。そうだとするなら、冒頭で神がメフィストに与えた言葉、神とメフィストとの賭けは一体なんだったのだろうか。

 大岡裁きのような、「終わりよければすべてよし」みたいな不自然な解決の例が日本以外でもないではないけれど(別稿「ベニスの商人」参照)、このファウストの結末には「ベニスの商人」に見られるような身勝手ともいえる理屈さえもついていないと私には思えてならないのである。
 もちろん契約を無視して神が独断でファウストの魂を救ったと断じたのは私の読み込み不足かも知れないと考えないではなかった。数多の言葉の中に契約破棄を正当とする理由がさりげなく示されており、単に私の読解力がそれについていけなかっただけなのかも知れない。そう思ってファウストの死以後の流れを何度か追ってみたのだが、どうやら私の実力はゲーテの思いには届かなかったらしい。

 挙句の果てはゲーテはこうした契約の成立を否定する正当な理由を見つけることができなかったのではないのだろうかと、世界の文豪に向かって不遜な考えさえ抱いてしまう始末である。この作品はゲーテが60年を費やして完成させた作品だとされている。この60年という時が、一行目を書き出したときからの時の経過でないことは確かだろうし、構想や習作など回り道の多い作品だっただろうことは容易に理解できる。それにしても作品として完成させた81歳のゲーテにして、この神の独断への正当な理屈を示すことはできなかったのかと、そんな思いを抱いたままこの難解な著作への挑戦を終えたのであった。

 さあ、これでこの本は書棚に押し込めてしまおうか。恐らくは再び開くことはないだろう。とにかくゲーテのファウストを自力で読破したのだから・・・。



                          2007.12.5    佐々木利夫


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