先日のNHKの番組クローズアップ現代は、「”キレる大人”出現の謎」がテーマだった(9月3日)。少し前まで「切れる」のは未成熟な青少年に見られる特有の現象というイメージが強かったのだが、今では公共の交通機関で、学校で、病院で・・・、切れるのは30代、40代の、それこそ「立派な社会人」に増えてきているのだそうである。そしてこの原因には「うつ」が深くかかわつていると専門家は言う。
 「切れる」という言葉が世上に現れてきたのは1990年代だとこの番組は紹介していたが、この10年ほどのあいだにすっかり定着してしまったといってもいいだろう。

 公務員として平穏な生活を送ってきたせいか、私にはあんまり「切れる」ような場面に遭遇した経験がない。そのことは逆に言えばスパイスやパンチの欠けた人生だったことを示しているのかも知れない。
 切れるとは一種の興奮であろうから、その興奮がある一定の許容範囲内での「怒り」であるとか、公憤などに止まる限りむしろ必要な現象なのではないかとさえ思う。

 とは言ってもこの「許容範囲内」というのがけっこう曲者で、その範囲は理論的には公共であるとか、社会であるとか、更には職場や家庭などの集団による平均値みたいな尺度が求められることだろう。だが実際の怒りの発動は「個々人の感情」によるところが多いだろうし、怒りと言うのはともすればそうした許容性を欠いたところにこそ意味があるとも言えるので一層複雑になる。

 そうした怒りが外に向かうのか、場合によっては内側に向かうのか、発揮の手段が言葉なのか、暴力なのか、それとも芸術であるとか競争などの発奮へとつながるのかは、やっぱり解釈が難しくなる。
 識者は言う。「うつ」が外に向かって言葉や物理的な力として出てくるのが「切れる」であり、内側に向かうのが自殺傾向である・・・と。
 そうした意見は素人の私などにはもっともらしく聞こえるのだが、だからと言ってなんでもかんでも「うつ」のような精神世界に解決の糸口を求めようとすることにもなんだか納得のいかないものがある。

 「うつ」などの精神障害が存在しないとは思わない。だが人はどんな時もまっすぐかと言われれば、決してそうではあるまい。ゆれ動く心こそがその人をその人たらしめている個性とも呼ぶべき本来なのではないだろうか。

 「こだわり」と精神のバランスとの境界についてはこれまでにもここのエッセイで書いたことがある(別稿「私の中の診療内科」参照)。人の心はいつもゆれ動いている。その動きをどこかで区切って右は「正常」、左は「異常」と判定するのだとしたら、逆に言うなら人はいつも正常と異常の間をさまよっている存在だと言ってもいいのではないだろうか。

 つい最近、モンゴル出身の横綱朝青龍が「解離性障害」との診断を受けて帰国して治療を受けることになった。原因は地方巡業を療養のためとして欠席し、本国で少年等とサッカーに興じていたことがマスコミに発覚したことが発端である。決して褒められたことではないし、横綱としての意識にも欠けるとの考えの分からないではない。

 だがこんな風に言っちまったら実も蓋もないかも知れないけれど、義務教育で生徒が学校さぼって映画を見に行ったのと大して違いはないような気がしないでもない。しかも例えば療養中だって絶対安静から日常生活に支障のない程度の運動可能な状態まで様々あったってなんの不思議もない。横綱にしてみれば少年とのサッカーなど散歩やリハビリ程度の軽い運動だったかも知れないのにである。

 だから、頭かきかき「申し訳ありませんでした」と並み居るテレビカメラの前で頭を下げれば、そこそこの始末書か謹慎くらいで済んだのではないかと思わないではない。そうした日本特有の反省のスタイルを見えるように示す手段を必ずしも選ばなかった(または回りの親方であるとか取り巻きなどがそうした指導をしなかった、更には本人がそうした手段を拒否した)ことが問題を一層大きくしてしまったような気がしないてもない。

 さてそこでこの「解離性障害」である。どんな病気なのか。必ずしもきちんと理解できるような説明はされていないようだが、そうした分かりにくさそのものがこの病気の本質を示しているのかもしれない。一説には「強い葛藤に直面して圧倒されたり、それを認めることが困難な場合に、その体験に関する意識の統合が失われ、知覚や記憶、自分が誰であり、どこにいるのかという認識などが意識から切り離されてしまう障害です。解離性健忘(かいりせいけんぼう)、解離性遁走(とんそう)、解離性同一性障害、離人症性(りじんしょうせい)障害などの形をとり、また、身体症状に転換されて表現されることもあります」と解説されている場合もある。

 「解離性障害」とは、なんとももっともらしくしかも不可解なネーミングであろうか。マスコミはいっせいにこの言葉に飛びつき、まるで自らが精神医学者にでもなったかのような報道が連日続いている。

 私はむしろこうした病名の方になんとなくうさんくささを感じてしまうのである。それは朝青龍の問題というよりは、そうした病名をつけた精神科医の方にどこかすっきりしないものを感じてしまうのである。

 「老人性うつ」というのもあると聞いた。そのことに異を唱えたいとは思わない。私がそうなることだって可能性の範囲に入るかも知れないし、場合によっては外れるかも知れない。

 「切れる大人」の背景に「うつ」が潜んでいると識者は言い、精神障害も早期発見、早期治療が大切だと繰り返す。そのことに間違いはないだろう。治療の遅れが更に重大な障害へと結びつくことだって、通常の病気と変ることはないだろう。

 だからと言ってなんでもかんでも心の病としてのネーミングをつけて、それでこと足れりとしてしまうような現代の風潮にはどこか納得できないものを感じてしまうのである。単なる気持ちの落ち込みや他の原因による症状などもひっくるめて「なんとか障害」だとか「なんとか症候群」などと名前をつけ一まとめに「心の病の一つである」と説明してしまうことで、医者も患者も家族も社会もなんとなく納得してしまうのは、どこかで本質的な何かを抜かした判断になってしまっている恐れはないだろうか。

 人は病名が付かないと安心できないのも事実だし、病気だと宣言されて安心するという場面がないとは言えない。だがことは心の中である。精神治療の診断はどこまで解明されているのだろうか。

 「切れる」ことの背景に精神的な要素のあるだろうことの理解できないではないけれど、それはもしかしたら病気ではなくて社会の構造であるとか、家族のあり方などといった別の面からのアプローチが必要な場合も多いのではないだろうか。
 例えば「切れる」ことは多くの場合「正当な側にいる思われる強者が当面批判されるべき立場の弱者へ向かう暴力」と言う形をとることが多い。電車の中で禁止されている携帯を使っている若い女の子に迷惑だと怒鳴りまくる中年サラリーマン、缶ビール2本を盗んだ男を殴り、蹴り、路上に放置し死なせてしまったコンビニ店長(9.5ネットニュース)などなど、「はい、その背景には欝があるのです」と説明してしまうことで済ますことにはどうも理解しくいものがある。

 私には切れることの背景には今の時代にはびこっていて、まるで病のようにも見える依存体質(別稿「なんでもかんでもお巡りさん」参照)があるように思えて仕方がないのである。自らを律する術を知らず、自分に都合のいい一切合財を他者に委ねて責任転嫁する、その対語として自分の思うようにいかなかった時に自分以外を非難することでバランスをとろうとする、そんな風潮が「切れる」につながっているのではないかと思うのである。

 もしそうした判断が「私とは無関係だと考えている傍観者」の「切れる」に対する無責任な理解を助長してしまうのだとするなら、今の精神科医療の診断はとてつもなく大きな「誤診の納得」を社会に強要する結果になっているということになるではないだろうか。

 それとも、「切れること」が今や依存の体質と共に日本人の生活スタイルに染み付いてしまっているとするならば、その事実は日本人全部が「うつ」の只中にあることをあからさまに示していることの証拠でもあるのだろうか。そんなにも日本人には「我慢する心」の容量がみすぼらしいほどまでにも少なくなってきているのだろうか。



                          2007.9.7    佐々木利夫


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広がっていく心の病