ダンテの神曲読破へとチャレンジしたときに、どこかでこうなることを予感してはいたのだが(別稿「しまった、ダンテ」参照)、どうやらその通りになってしまった。
 この作品はダンテと称する男がウェルギリウスと名乗る先達に出会い、地獄と煉獄(生きているうちに犯した罪のつぐないをしないで死んだ人の霊魂が贖罪を果たすまで、火によって苦しみを受ける場所、新明解国語辞典)を見せてくれるとの約束を交わすところから始まる。

 そしてやがてダンテと名乗る男は地獄煉獄を経て天国へと向かうことになり、この壮大な物語は地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部作でまとめられている。

 読み始めて間もなくこんな言葉が立ちふさがった。

 「われを過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ」(地獄篇、第三歌、9行)。

 地獄の門の上に刻まれている言葉である。ここからは地獄である。煉獄ならば死者の魂は贖罪を果たすことで天国への道が開かれているけれど、ここには絶望だけが満ちていることをこの門の刻印はあまりにもあっさりと記している。芥川龍之介は小説「蜘蛛の糸」のなかで、たとえか細いにしろ天国と地獄を結びつけるかすかな望みを描いたけれど(別稿「蜘蛛の糸」参照)、ダンテの地獄の入り口には一切の望みが絶たれていることが宣言されている。

 そんな脅迫にもめげずにくぐり抜けた覚悟の門だったはずなのだが、次の煉獄への道程は思ったより険しいものだった。先のエッセイでも書いたことだが、活字が小さいこと、通常よりも一回りも大きい版で800ページを超える大作であることは承知の上だったにもかかわらず、なかなか作品の内容に入っていくことが難しかったのである。

 その原因の第一はあまりにも人名、地名などの固有名詞や他からの引用文などが多いことであった。地獄篇では様々な地獄の責め苦にあえぐ人々の姿を克明に描いているのだが、その登場人物やその人物の生きていた時代や場所などが何の説明もないまま溢れるほどにも出てくるのである。
 それは時に聖書の時代であり、時にギリシャ神話の世界であり、時に伝説や著作者ゲーテと同時代に生きる者の姿やゲーテ自身にとっての公知の歴史でもあった。死んでもなお残っている誇りや恨みや驕りや後悔や未練、更には生に対するあまりにもあからさまや執着などが地獄を構成する風景のなかに克明に描かれ、巡り歩くダンテへその思いを切々と訴えかける。

 それは神話や聖書や伝説などを必ずしもきちんと理解していない私にとっては、まるで得体の知れない、食べられるかどうかさえ定かでない材料のごった煮そのものであった。

 もちろんかろうじて理解のできる部分のないではなかったし、なるほどと思える情景もそれなり存在した。

    不幸の日にあって
    幸福の時を思い出すほど
    辛い苦しみはございません
              地獄篇 五歌 121行

    一見嘘のような真実についてはいつも
    できるだけ口を閉ざしている方が得だ
    いえば落度はなくとも嘘つき扱いをされるからだ
              地獄篇 十六歌 124行

    自分を苦しめる夢を見て、
    夢の中で夢を見たい、と望む人のように
    あることをまるでありもせぬかのように思い願う
    そんな人のように私はなった
               地獄篇 三十歌 136行

 
だが例えばこんなフレーズがある。

    すると男が答えた、「俺は修道士アルベリーゴ、
    悪の園に生えた例の果物の坊主だ。
    ここで無花果(いちじく)のかわりに棗(なつめ)を返報に受けている」
                地獄篇 三十三歌 118行


 日本語として読めないわけではない。日本語として意味の通じないことでもない。だがダンテがここで何を語ろうとしているのかを、この文章の中から私に理解せよと言うのは無理であった。まるで意味がつかめないのである。
 この文章に対して訳者ここんなふうに注記している。

 アルベリーゴはロマーニャ地方のファエンツァの法王党の首領の一人で、同族のマンフレードとその子アルベルゲットを宴会に招待し、食事が終わって、「果物を持って来い」という合図によって二人を殺した。一二〇行の無花果、棗はそのことへの暗示であろう(同書P121)。

 注を読んでさえ、私にはこの三十三歌の僅か三行の意味するところを理解することはできなかった。注そのものにだって理解には程遠かったからでもある。

 地獄篇は全部で三十四歌から構成されているが、こうした注が本文よりも小さな活字で各歌ごとに時に20を超える項目にわたって書かれており、注のほうが本文よりもボリュームがあるのではないかと思われる部分すらあるのである。注を読まなければ先へ進めず、注を読んでも先へ進めない、そんな状態が読んでいる間中続いたのである。

 ともかくも地獄篇だけは読み終えようと自らを励まし、一ヶ月近くを要してどうやら読み終えることができた。そして煉獄篇へと入ったのだがこれまた地獄篇と同様の構成になっていた。
 一番の問題は書かれていることに興味がわかなかったことにあるのだが、内容のきちんと理解できないものを楽しめというほうが無理でもあろう。
 まさに私の知識のなさがこのダンテの神曲を自ら遠くへと押しやってしまったのかも知れない。

 ともかくも再度チャレンジする気力が将来湧いてくるかどうかは分からないけれど、当面は砂を噛むような文体についていける自信がなくなった。他の地域の図書館から取り寄せてももらった本であり、二週間の貸し出し期間を再延長してもらって、都合約一ヶ月をかけての挑戦だったが、煉獄篇へ10ページばかり突入したところであえなく白旗をあげることになってしまった。

 何と言っても挫折である。活字をなぞるだけでいいのなら恐らくあと一ヶ月もあれば天国篇へ入って読了できたであろう。ただそれでは「ダンテの神曲を読んだ」とは言えないだろう。それはあたかも般若心経全部を写経したところで、その意味をつかむことにはつながらないのと同じだからである。

 ただ問題は、そんなこと言っちまったら、「私は意味をつかんだ読書などこれまでにしてきたことなどあったのだろうか」とどことない背筋の寒さを感じる自問が落ちになってしまうのかも知れないが・・・・。



                          2008.3.9    佐々木利夫


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ダンテ、やっぱり・・・