天気予報の様々な警報や警告が人々の意識から離れていってるのではないか、いやむしろ人々の方が逃げていっているのではないかと書いたのはつい先週のことである(別稿「天気予報は予報を諦めた」参照)。この話はそれと重複するかも知れないけれど、先週の台風13号がそのことを余りにはっきりと示していたように感じたものだから天気予報のこれからがますます心配になってきている。

 今年はまだ台風が珍しく日本本土に上陸していないそうである。だからと言って被害がなかったわけではない。先週フィリピン沖で発生した台風13号は、台湾北部に上陸した後に東へと進路を変え、南西諸島沖をそのまま東進して九州・四国の南端へと進み、太平洋を日本列島に沿うような進路をとった。そしてやがて9月20日銚子沖を東へと抜け太平洋上へと進んで温帯低気圧に変わり消滅した。

 結局日本への上陸はなかったのだが、今年は海水温度が例年よりも高いこともあって台風へのエネルギー補給も潤沢で勢力が弱まることなく進んだことから各地にそれなりの被害を与えた。

 話はこの台風13号が和歌山県沖を通過したときのことである。今年だけの一過性のものなのか、それともゲリラ豪雨と呼ばれる狭い地域での集中豪雨が温暖化による地球レベルの変化によるものなのかそのあたりはよく分からないけれど、三重県尾鷲市では一時間の降雨量が300ミリを超えた時間帯があったそうである。それで尾鷲市は19日未明、市内の特定地域の住人約7,900世帯17,545人に対して避難勧告を出したとの報道をテレビで知った。

 そしてこれはその結果である。1万7千人を超える人たちに避難の勧告を出したのはいい。だが実際に避難したのはピーク時で67人だったとニュースは伝えていた。しかもその報道は67人であることを単なる数字として掲げるだけであった。つまり、避難勧告17千人と避難した67人とは単なるニュースの中のまるで無関係な単なる二つの数字としてニュースキャスターやアナウンサーの口から発せられたに過ぎなかったのである。

 別々のニュースの中で、降った雨の量が500ミリと言うことと交通事故の死者累計が何人になったとの報道だったのならそれはそれでいい。だが避難勧告対象者数と実際に避難した人数とは密接不離にあるはずである。
 尾鷲市の避難勧告や避難人数などの事実は、その台風が日本列島に沿って明日は関東地方に大きな影響を与える恐れがあるかも知れないと言う状況だったから、何度もニュースで繰り返された。だがこの二つの数字はアナウンサーの口から単なる無関係な独立した数字としてしか読まれることはなかったのである。

 さて、尾鷲市のおける台風の被害状況、つまり避難勧告の結果について検証してみようか。それは「床上浸水4棟、床下浸水13棟、特に人的被害の報告はない」であった。
 住民は知っているのである。いや知らないかもしれないけれど、被害など起きないと高をくくっているのである。避難勧告対象者数と避難住民とのこの差は、勧告を受けた住民のほとんど全部がその勧告を無視したことを示している。極端に言ってしまえば誰も避難しなかったのである。避難勧告の意味も趣旨も、住民には何一つ伝わらなかったのである。

 具体的に現場で検証しなければきちんとしたことは言えないとは思うのだが、住民に避難勧告が届かなかったことも考えられないではない。防災無線が機能しなかったり、停電で情報が伝わらなかったとか、勧告のメッセージが風雨の音などに消されしまったということもあるだろう。だとすれば、その避難勧告は避難勧告としての役割を果たせなかったのだから避難勧告のシステムそのものを再構築すべきものだろう。

 だが私はそうは思えないのである。恐らく避難せよのメッセージは多くの住民に届いたと思うのである。届いたにも関わらず住民はその勧告に従わなかったのだと思うのである。それは何故か。避難勧告の緊急性や重大性が伝わらなかったからである。それは受け手側たる住民にも責任はあるかも知れないけれど、それ以上に私は、避難勧告を出した側により大きな責任があるのではないかと思うのである。

 避難勧告を出した側に、「出しておきさえすれば責任を問われることはない」との思いはなかったか、そしてそうした勧告に従わない原因に、避難勧告の必要性の検証がきちんとされているかの反省のなさがあるのではないかと思うのである。

 おおかみが来たと嘘をつく少年の話についてはかなり前だけれどここへ書いたことがある(別稿「オオカミ少年」参照)。その中で私は、「台風や地震などの命にかかわる情報は、なんど外れても信じなくてはいけないよ」と、嘘にもめげずに信じることの必要性を説いたけれど、この信じられていない避難勧告にもそうした背景が隠されているのかも知れない。

 話は変わるが、つい先日(9月11日午前9時半頃)北海道十勝沖で発生した緊急地震速報の時もそうであった。この速報は北海道では始めて発令されたのだが、それを信じて行動する者はほとんどいなかっのである。そしてこの地震警報に続いて津波警報も出されたが、その警報に呼応して避難した人は実に一人もいなかったと言うのである。もっとも発生した津波は最大で10cm程度だったと伝えられているから、避難する必要などまるでなかったということでもあろうし、「警報なんてそんなもんさ」としたり顔で津波警報を聞き流した住民の顔が見えるようである。

 尾鷲市の避難勧告や十勝沖の地震や津波警報に見られるこうした住民の警告無視の行動は、結局そうした情報の信頼されていないことが一番の原因にあるのではないだろうか。避難指示は、その地域の住民の身体生命に対する侵害が身近に迫っていることを知らせることにある。ならばそうした情報をまるで信頼の置けないものであると住民が思いこんでいるとしたら、その警報や警告は何の意味も持たなくなる。

 その背景として私は、乱発される警報や警告が住民のそうした情報不信を助長していることにあるのではないかと思っているのである。それは決して住民の責任ではない。警報を発した側は「警報を出した以上は後は受け手の自己責任だ」と言うかもしれないけれど、当たらない警報、結果的に必要のなかった警報の繰り返し発令のほうがずっとずっと責任が重いのではないだろうか。

 警報だって予報の一種だろうから、当たり外れのあることを批判しようとは思わない。だが自分の責任回避のために「とりあえず警報を出しとけ」みたいな気持ちが少しでも発令側にあるとしたら、そんな警報はまるで無意味なものになる。

 警報の精度をあげることが住民の信頼を得るためには最大の目標になるであろうけれど、私は少なくとも発した側が警報が外れたこと、警報が過大に過ぎたことを謙虚に反省し、その反省や改善の意気込みなどを住民にきちんと伝えていかないと、警報はその使命をまるで果たさなくなってしまうのではないかと思っているのである。「自己責任」を住民に押し付けるのは情報発信側の傲慢ではないか、私はそんなことまで感じてしまうのである。



                                     2008.9.22    佐々木利夫


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