どうも私には天気予報に対する抜きがたい不信感が存在しているようだ(別稿「垂れ流しの警報・注意報」、「天気予報と謙虚」参照)。

 予報はあくまで予報なんだから、いかにスーパーコンピューターを駆使しようと、ある種の確率にしか過ぎないことを理解できないではない。つまり、当たり外れがあるからこそ、その情報を「予報」と呼ぶことくらい分かっているつもりである。それに天気予報が外れたことでこれまでにそれほど手痛い不利益を被った記憶もないから、そんなに不信感をあらわにしなくてもいいではないかと思わないでもない。それはそうなんだけど、それでもどうしても天気予報にはどこか胡散臭さが付きまとっているとの思いが頭から離れないのである。

 それはやつぱり冒頭に掲げた別稿での意見が背景にあるのかも知れない。それならそのことは既にここで発表しているのだから、改めてわざわざ取り上げてることはないだろう。ただここに書こうと感じたのは、最近その天気予報が予報としての役割を放棄し始めたのではないかと感じるような報道に接したからである。
 それはつい先日聞いた気象予報士の次のような二つの言葉であった。

 一つは「晴れマークが並んでいますが、どこで降ってもおかしくない状況になるでしょう」であり、もう一つは「雨マークがなくても急な豪雨にお気をつけください」であった。

 これを聞いて私は、「こんなこと言っちまったら予報は予報でなくなっちゃうんじゃないのか」、そんな風に思ってしまったのである。言ってることが分からないと言うのではない。恐らく予報の外れることを危惧して付け加えたのかも知れないし、小さな確率ながら雨の可能性も捨て切れなかったのかも知れない。
 冗談話だろうとは思うけれど、天気予報に関してこんな話を聞いたことがある。明日の天気を聞かれたら、「今日と同じです」と答えればいいと言うものである。つまり、天気は二日以上は続くという言う見方である。
 まず第一に「今日と同じ」と予言した場合、明日の天気は「当たるか、当たらないか」の二つしかない。つまり何の知識がなくても確率50パーセントの確率で明日を予報できるということだし、仮に同じ天候が二日続く可能性が高ければその確率は70パーセント近くにも上昇するからである。それは「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と同等以上の意味を持っている。それでも天気は連続しているけれど必ずしも今日の天候が明日も続く保証はない。だから八卦である。

 でも少し考え見ると(それはもちろん現在の天気図などのテレビ画面から学んだ知識そのものではあるけれど)、天気が偏西風の影響で日本列島を西から東に移っていくことは自明である。そしてその天候(むしろ低気圧、だとか高気圧だとか、前線などの空気の状態とでも言うべきか)の移っていく速度は時速数十キロと言う単位である。とするなら、その時速から推計した距離分だけ西の地方の天候が明日の今のこの地方の天候になることは当然のこととなる。そしてそうした天候の移動の多くは数日以上を要して当地へ届くはずである。

 さてこれで「今日の天気が明日も続く」ことは50パーセント以上の確率を持って保証されたことになる。ましてや一定の距離にある西の地方の天候が分かればその確率は更に上昇していことになる。その地方をどこに決めるかは難しい問題ではあるけれど、そこは試行錯誤に任せることとしてあとは電話一本で私は天気予報の名人になれるというものである。

 それでも私の天気予報は外れることもあるだろう。天候が必ずしも真西に一定の速度で移動するとは限らない。偏西風の動きも複雑だし小さな前線や低気圧などは微妙に発生や消滅を繰り返すから、通過する地域の天候をそれなり変化させるからである。
 だから呪術的なほどにも精度を誇る私の天気予報ではあるけれど、次の一言を付け加えることを決して忘れないであろう。「明日は晴れ、ところによって曇りか雨になるでしょう・・・」と。

 その通りである。先に書いた気象予報士の言葉と同じ言葉である。だから私はこの気象予報士の言葉が昔ながらの呪術師よる雨乞いの祈りの言葉と何にも違っていないのではないかと思えてならないのである。

 もしお疑いなら私は確信を持ってこれを読んでいるあなたの住んでいる土地の明日の天候を当ててみせましょう。今、雨が降っているならこんな予言になるだろう。「明日も雨です」。この予報は50パーセントの確率で当たるだろうし、仮に外れても決してあなたは私のことを嘘つき呼ばわりすることはない。なぜなら機嫌よく目覚めたあなたなら、朝のさわやかな陽光と透き通るような青空に私の外れた予言のことなど歯牙にもかけることはないだろうからである。そして今、晴れているなら、同様に「明日も晴れるでしょう」と予言し、そして冒頭に掲げた気象予報士の言葉を添えることにしよう。これで私の天気予報は完璧になるはずである。

 えっ、そんなじゃあ何の役にも立たないとおっしゃりたいのですか。でも私は世界有数のスーパーコンピューターと数十億円か数百億円もかけて打ち上げた気象衛星からの情報を駆使した最新鋭の天気予報と同じことを言っているつもりなんですけれど・・・。

 恐らく私の不信の基本には、天気予報の中に余りにも脅迫じみた情報の乱発があるからなのではないかと思っている。「あめ、はれ、くもり」みたいないわゆる天気予報そのものならたとえ多少外れてもそれはそれで納得できる範囲に入るのではないだろうか。
 昔から河豚を食うときには「気象台、気象台、気象台」と三回唱えると言うではないか(天気予報同様河豚毒にも当たらないとのおまじないのジョーク)。

 だが垂れ流しの予報、予報のしっ放しの無反省、余計なお世話の天気にまつわる話し、過剰とも思える警報や警告の乱発は情報の受けて側にその情報に対する麻痺を引き起こす。特に警報にちけ加えて、「晴れているが傘持って行け」だの、「一日中晴天の予報だけれどにわか雨があるかも知れないので洗濯物に注意しろ」だのと脅迫めいた情報が余りにも垂れ流しになっている。

 言うだけ言っておいて、後は聞いた人の自己責任だと自らの責任を回避する姿勢、その予報が外れてもそれは予報なんだから当然とでも言うようなまるで無反省な態度が、気象予報士の笑顔の中に見え透いているように感じるのは私の僻目であろうか。
 そうした無責任とも、また余計なお世話とも言えるような予報や警告じみた情報が親切や善意みたいな衣をまとって無反省のまま氾濫し始めている。だから人は天気予報をどんどん信用しなくなっていく。それは天気予報自らが招いた責任なのではないかと、へそ曲がりの老税理士は密かに感じているのである。



                                     2008.9.17    佐々木利夫


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天気予報は予報を諦めた